雑 記 帳

12年の実績がある今までの「随筆コーナー」は、2014年9月を持って閉鎖致しましたが、自分自身のボケ防止も兼ねて、類似のコーナー「雑記帳」を設け、、随時思いつくままを書いていきますが、一読の価値のない駄文ですが開いて頂ければ有り難いです。

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「戦後70年に思う」について

当時13才の私が、70年も前の少年時代を想い出して書いています。書き始めるといろいろの出来事が浮かんできて、時系列別に記載することはできませんでしたがなんとか進めていきます。

不思議なことに、昨日や今朝の出来事は忘れても平気でいる今の私の脳が、70年も前の少年期の思い出が、すんなり浮かんで来るのには自分でもビックリしました。

そこで私は考えた。それは後世の為に書いておけと誰かが命令或いは指示しているものかもと思い、戦時中から敗戦後のドサクサ時代を過ごしたあの頃の思い出を書いていますが、ご一読頂ければ有り難いです。

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「戦後70年に思う-10」 最終編     2016.2.4
  
マッカーサー元帥 厚木飛行場進駐
8月30日には、厚木飛行場にマッカーサー元帥が進駐し、その後我が国各地に進駐軍が駐留し、連合軍による日本国の占領統治政策が始まった。

我が町柏崎市へ米占領軍進駐
その後、私の住む柏崎市にも米軍が進駐してきたが、あの時初めて見た光景を思いだしてみる。

柏崎市年史によると米軍の規模を
9月27日進駐
米軍人数は 640人 
とあった。

普段賑わっている柏崎市本町通りの人出も、この日は殆ど人影はなかった。
学校帰りにラジオ部品店に立ち寄っていると、進駐軍の進駐行列に出合った。珍しい光景であり他のお客様とみんなで窓越しに見守った記憶がある。

・店主からが声をかかった
「進駐軍が来るから危険だ、外に出ないよう!」に、と云いながら店のガラス戸をしめた。ガラス戸越しに外を見ると、本町一丁目方面からこちらに向かって、何台もの米軍のジープが隊列を組んで静かに走ってきた。ジープにはそれぞれ軽機関銃が設置されていて、射手はガムを噛み米軍同士で話しあいながらながら和やかな表情で軽機関銃に手を添えていた。

初めて見る米軍の進駐風景を興味をもってみていたが、負けた日本軍のように残虐行為が行われるのか等、いろいろと想像しながらこの行進を見守った。なお、進駐軍の宿舎は理研工場の従業員宿舎だと聞いた。

進駐軍の車列は長く整然と続いた。
我々は初めての経験の外国軍隊の進駐風景だ。これから起こる事態は、今まで日本軍が外地でやってきたことと、同じように残虐行為が行われるのかと想像するのは無理はない。

巷では、若い女性は進駐軍に近づいてはならぬ。とか、夜間外出しては如何んと云われてきたが、進駐後の彼ら米占領軍の行動は非常に紳士的であり、私の耳に入っている情報では、残虐性や不埒な行為は何一つ起きなかったようである。

それよりも、米軍が何もない日本人の子供や女性に、ガムやチョコレートをくれたりと至って紳士的であったように記憶している。

その後進駐軍が横流ししたものと思われる闇外国製物資(柏崎の進駐軍が出した物ではないと思う)が流通していて、戦中には手に入らない物資が裏ルート(闇ルート)で流れていて当時はとても手に入らない白い砂糖や菓子などが出回っていた。

私14才の少年が感じたことは、本町を一直線に行進してくる自動車(ジープ)であった。
当時の日本軍の侵攻作戦の物資の輸送は、民間の農耕馬を徴用して軍馬として使っていた。それなのに、彼等は自動車(ジープ)に乗って戦っていたのである、この差はなんだ。これこそ国力の差である。

話はそれるが新潟の護国神社には「軍馬の碑」「軍犬の碑」があり、軍歌にも「愛馬行進曲」が歌われていたのである。護国神社参道には軍用犬の碑もあり、通信用に使っていた。

これらの大きな違いが日本軍が負けた原因である。日本軍が軍馬や犬を使っていた時代に、米軍は戦争用の自動車(ジープ)を開発し、戦闘に使っていたこの大きな差だ。当時軍国少年であった私は、このジープをみて、戦争は自動車と軍馬の差だ、勝てる戦争ではなかったと思ったのが率直な感想であった。

戦後進駐した進駐軍のジープは歌にも歌われた程である。
「りんごの歌」(並木路子)が流行した次が
「向う通るは ジープじゃないか 見ても軽そうなハンドルさばき」、
と歌っているほど進駐軍を受け入れていた。
外に、当時の世相をネットより紹介すると、
邪気は明るい歌、
「朗らかなアメリカ兵は、今日もオープンでスピードアップ 」とか、
「ハロー、ハロー」の歌詞など、敗戦直後を 鈴村一郎が「ジープ は走る」で歌っている。

その後私の住む柏崎市でも、進駐軍は毎日に見かけることになるのだが、戦中は米英国軍は野蛮な鬼畜と教えられていた我々日本人は、進駐した米兵が何をやるか分からない、女性は得に注意せよ等と警戒をしていたが、彼らの行動は占領軍なのに、旧日本軍と異なり実に紳士的で、住民、特に女性に危害を加えた話は聞いたこことはなく、実に紳士的な兵隊だと私は感じた。

進駐米軍も長くいれば特別な存在ではなくなる、若い女性達と打ち解け合っている姿などは、よく見かける光景と変わっていったが、特筆するような出来事は伝えられなかった。
真意の程は分からないが、当地の進駐軍はニューヨーク州の州兵で紳士的なのだとささやかれていた。

私は米兵から直接もらったことはないが、米軍のガムが手に入りを噛んだことがある。そのときの感想は、、我々は杉ヤニや松ヤニを噛んでいた時代に、こんなに美味いものを噛んで戦争をしていたのか、日本とは大違いの米軍の待遇の良さを見せられて、一枚のチューインガムを、友人と半分に分けあつて噛んだあの味は格別で、生まれて初めて味わう美味な味覚に酔っていた。

遡って勤労動員で列車で見た連合軍捕虜の人たちが噛んでいたのは、このチューインガムかと思いだしていた。(「戦後70年に思う」-6を索引ください。

この当時の関連がないかと、ネット検索いた結果ありました。
「 私の8月15日」のコーナーで、しかも私と同じ柏崎市の女性からの発信がネット上に掲載されていたのでご覧ください。
     
ネット「 私の8月15日」より転載
なお以下同文を転載させてもらいます。ネット引用は「」内表示

----- ネットより引用 ------------

「進駐軍のことなど   
                      **0子

 あの当時は、戦争に負けたら日本人はみんな殺される、と聞かされ ていました。いま聞くとまさかと思うでしょうが、ずーっと時間を かけて洗脳されていました。

 8月15日のあとで柏崎にも進駐軍がきたのです。その日は、「外 にでるな。女は隠れているように。」と言われたのです。そのあた りは分かるのですが、進駐軍が柏崎についた時のこと、その後に市内を歩いている姿は記憶がないのです。この原稿を書くに当たって困りましたから、とりあえず3人の知人にたずねました。たぶん分かると思うから東京へ行った叔母にも電話しました。が、そろいも 揃ってなにも覚えていないと言うのです。進駐軍はダンスをしな かったかしら?それもぜんぜん分からないといいます。

 ようやく目撃した人に出会いました。一人は「理研の事務所で残務 整理をしていたら、進駐軍がきた。青年学校は大きいからそこにはいった。危ないから早くといわれて急いで帰った。」
 次にもう一人、私の妹も当時小2でしたが、
「ジープやほろ付きの車を連ねた進駐軍を見た。ものすごく長い列で通り過ぎるのに時間 がかかった。戦闘帽の人もいたし、カッコいいすてきな帽子の人も いた、ジープを止め、おいでおいでをして、ガムやお菓子を呉れよ うとした。でも先生にぜったいダメと言われていたから貰わなかっ た。3回ぐらい見た。はじめは怖かったがだんだんにそうでもない と感じ近くまでも見に行った。」
と聞かせてくれました。もうすこ しきちんと書いたものが残っていないかと探してみました。

{柏崎編年史}
20年9月20日 アメリカ第8軍27師団司令部を新潟におく。
24日約5000人、新潟、三条、新発田、村上に進駐。
25日 柏 崎、高田に進駐。
柏崎は9月18日に3人、
24日に7人で進駐準備、
9月27日G 大尉以下、640人進駐、宿舎は理研工場。
とあります。

私の家は理研正門の近くでしたから、これで知人や妹の言葉の裏付 けが出来ました。
いつまで駐留したかそれは書いてなかったので分かりません。それ にしても640人だったのですか。私を含めて、街中(まちなか) に住んでいた数人が覚えていないのはおかしいです。56年の昔は 忘却の彼方でしょうか。情けない。

進駐の日のことは記憶にないが、他にいくつか覚えていることがあ ります。私は終戦後になってから再就職して、山の方の学校につとめていました。ある日地図や歴史の年表を焼きました。進駐軍が見 に来ると言うのです。たたみ2畳ほどある大きい地図を惜しげもな くジャンジャン燃やしました。もう地理の時間にぶらさげることも 無かったのでしょう。すこし貰って置けばよかったかな。怖くてとてもそんなことを言える雰囲気じゃあなかったのです。どんな立場 にいた人が戦犯になるのか分からなかったからです。進駐軍は山の学校には来ませんでした。」

  以上、当時の模様ですが、私と同じく恐怖感などはなかったようである。

最後に感想
 あの時期の軍国少年も今7回目の干支を迎え。今の政治は何となく暗いあの頃へ向かっているように思いて仕方ない。最早それを見届けることは叶わない歳になった。願わくは再び後戻りしないように祈りつつ筆を置く。


「戦後70年に思う」-9     2016.2.3

前号で「次回は、ここまでの間に、敗戦国日本がどのように統治されたかを、自分の勉強も兼ね資料を元に考えてみたいと思います」と書きましたが、この変動期の中央では大混乱が起きていたが、我我国民には何も伝えられず終戦の8月15日の玉音放送を聞いて終戦を知った。

その辺をいろいろと調べていく内に、ネット上で「敗戦とGHQの進駐、施策指令」を読み、私の知らないあの当時の模様が詳しく描かれているのを発見した。
著作権との兼ね合いもあり、冒頭の一部を転載ささせてもらいますが、なお詳しい事はネットで 敗戦とGHQの進駐、施策指令を検索し一読されることをお勧めします。
                     記

・冒頭転載の分「 」表示     
8.14終戦前日~8.15ポツダム宣言受託の日 
 我々は、終戦処理も抵抗なく行われていたと考えていたが、正式に伝えられていなかったところでは、「陸軍の抵抗勢力が本土決戦の遂行と、天皇制とポツダム宣言の破棄を求めて軍事クーデターわ開始した」とあり、噂では聞いていたがやっぱりあったのか!!、戦争戦後のめまぐるしい時代でも、報道は必ずしも真実を伝えてはいないと再認識をした。以下( 参考文献)による。

「【軍の徹底抗戦派が首相官邸襲撃】
 8.14日から15日にかけて、陸軍中央部の少佐、中佐クラスの将校若干名は、本土決戦を遂行すべく、昭和天皇と政府の、ポツダム宣言受諾の決定を破棄せんとして、軍事クーデターを開始した。

8.15日、日本本土防衛軍の中のもっとも重要な部隊となっていた東部軍(関東、甲信越、伊豆七島)司令官田中大将が自決した。高嶋辰彦参謀長少将がそのあと、東部軍司令官の職を代行した。この高嶋氏は、次のような大東亜戦争観を披瀝している。

 概要「大東亜戦争の目的は、アジアの諸民族を、米英オランダ帝国主義から解放すること、そして、共産主義の拡大を阻止することにあった。日本は、同盟国と共に、この二つの目標を以て、大東亜戦争を戦った。日本は、米国に敗れた。しかし、にも拘わらず、大東亜戦争の目的は実現された。従って、我々は大東亜戦争に勝利したのである」云々。

 ちなみに、仲小路彰も、敗戦に際して、高嶋少将と、全く同じ趣旨の文書を発して居ると言う。これを「高嶋=仲小路説」と云う(「大東亜戦争は勝利した」(高嶋、仲小路)との説は正しいか?」)。

 1.15日早朝、戦争終結を阻止しようとする50人ほどの兵隊が機関銃で首相官邸を襲撃、玄関にガソリンをまいて火を放った。鈴木首相は私邸に帰っていて難を逃れた。

首相不在と知って、一隊は直ちに小石川の私邸を襲い、やはり火を放つ。鈴木首相は官邸からの通報で避難し、間一髪で無事だった。鈴木首相は、「これからは老人の出る幕ではないな」と一言漏らし、即日内閣総辞職する(2002.8.31日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より)。
・・・・・と続きますが、続きはネット「敗戦とGHQの進駐、施策指令」でご覧ください。

・私の感想
このページにより、70年前の事実を知って彼の当時を思い起こして、報道の自由が如何に大切かを改めて知った。


                      
「戦後70年に思う」-8    2016.1・22

・学校内で争議
勤労動員から復学後は平常な学校生活が始まったように見えたが、ある日登校し、下駄箱へ下駄を入れて講堂へ進むと、普段と違う光景が目に入った。講堂の中央に卓球台が据えられて、その上で我々より3年上で機械科の級長をしていたK君がメガホンをもって何か演説している。

その内容は「校長を連れてこい」「**先生を連れてこい」などと、校長や残留先生への不満をアジっていた。

何のために大騒ぎをしているのか私には分からない。しかし、目の前で次々に代わる弁士は軍隊帰りの復員先生であった。どの弁士も校長と軍隊へ行かない先生への不満を訴えていた。この光景は毎朝演じられていて、ついに治安維持法で拘置されていて、戦後に釈放された共産党員が演説台に立つ始末であった。

その様は、正に後年中国で行われてた人民裁判のようで、多くの先生は何時自分が卓球台の上へ上げられるか不安の様子で、学校内は勉強ができる環境でなくなっていった。

この一連の騒ぎの経緯を知らない私達は、卓球台の周囲に座って彼等のアジ演説を聴いていたが、その内容は現校長への不満だったと記憶しているが正確なことは分からない。こんな環境の下では授業が受けられなくなり登校できない日々が続いていった。

これを扇動したのは、若い復員教員の一部であった。この先生達と校長との間がうまくいかず、何の関係もない我々を巻き込んだ争議だったようだ。学校には登校しても先生が教室で教えてくれる情景はなく、むなしい日々が続いたいった。

この争議がどういう形で終結したかは分からないが、登校して気がついたのは、争議を起こした復員先生グループの顔は、その後見ることがなかったところを見ると、結局彼らの負けに終わったようだ。

一方校長の処遇は、県立**金属試験場の所長へ左遷させられ、新校長に代わり、校内の新秩序が一応成立し、この争議は一件落着した。争議に巻き込まれたこの間我々は勉強もできずに、大変な迷惑を被った大事件があった。

何の目的で大騒ぎしたのか、何時から起きて何時どのように終熄(しゅうそく)したのかは、詳しい情報は伝えられずこの争議は終わりを告げた。

混乱の戦後なればこそ起きた事件であった。振り返ってみるに、歴史上初めての敗戦で統治者も国民も大混乱していた。特に治安維持法で一斉検挙拘束されていた日本共産党員が、マッカーサー命令で獄中から解放されて、世の中の動きは左傾化し最も著しい動きは労働組合で、食べるもの着るものもななく、経済はインフレーションとなり金の価値が全くなくなり、日本国中が混乱のウツボと化していった。

戦後村内のY小学校へ前進座が開演された。友達と見に行く約束したが、父に話すと「行ってはダメだ」と言われた。何故か、それは左翼系思想が弾圧された時代を経験した父が許してくれなかったのだと思った。

次回は、ここまで書いて来た期間に、敗戦国日本がどのように統治されたかを自分の勉強も兼ね資料を元に考えてみたいと思います。



「戦後70年あの頃を思う」-7  2015.12.29

・勤労動員先から学校へ
敗戦の翌々日だったか詳しくは覚えていないが、勤労動員先へ行く必要もなくなり学校へ向かった。
久しぶりに戻った教室は懐かしく以前と変わらなかった。この日も体育館で行われる朝礼に参加した。参加クラスは3年生以上は勤労動員で軍需工場へ派遣されていたために、この日の朝礼は1年生と我々2年生だけだった。

勤労動員に参加するまでは、校長の朝礼挨拶はいつも戦争賛美の演説内容だったが、戦争に負け社会の価値観が真逆になった今、校長自身も何を話したらいいか分からなかったのだろ、それも無理はない。 聞いていた我々生徒もチンプンカンプンで聞いておりその辺の記憶はない。

教室に戻り、担任の先生から今の日本の現実を聞いたが、日本国内は大混乱であり、先生と言えども我々以上の情報など持たなかったと思われるから、話す言葉もなく、しどろもどろと言うところだった。

当時、ほとんどの先生が戦争賛美を教えていたとは限らない、先生の中には、戦争に疑問を持っていた少数の先生もいたような気がする。国内が戦争一直線の時代に、戦争について一言も触れない先生もいたような記憶がする。
当時は反戦争的な言葉が口でも出れば、特別高等警察刑事(特高)に手錠をかけられ刑務所に送られるる時代だった。

一方、軍部の手先になつて、毎日校庭に生徒を集めて、戦争の意義を謳え、鬼畜米英と戦争をあおり、声高らかに戦争歌を先頭に立って歌って、我々生徒に復唱させて、戦争協力に積極的な先生がほとんどだった

これらの先生たちは、敗戦による社会の大混乱に抗しきれず、自分が何をなすべきかさえを見い出されず、かわいそうなほど小さくなっていたことを思い出す。

・新思想「民主主義」「自由主義」・・??
この混乱は経験した者でなければ分からないのでないか。新しい思想「民主主義」「自由主義」などの政治手法が、欧米諸国で行われていたことを知っている先生も少なかったのではないか。と思っている。
軍国主義の教育で育った我々生徒は、それ以上に無知である。当初は、自由と聞いて、何でも好き勝手なことをやって良いのか・・・・等と不思議に思ったものだが、自分勝手なことではなく、規律の中の自由であることを知ったのはその後であり、知識も何もない軍国主義育ちの私など「自由」を勘違いをしたのである。これは私だけではなく、多くの日本人が同じであったと思う。

・当時の教科書
何といっても14才の少年である。その胸には、この先どうなるのか不安を感じていたのは言うまでもない。その頃の教室内の風景は具体的には思い出せないが、ハッキリ覚えているのは、今までの戦争賛美教科書内容の変化である。
焼け野原の国土では、印刷もすぐには間に合わないためか、既存教科書の内容を「ここから・・・ここまで墨で消す」などと教科ごとに指示をうけ、家に帰って硯(すずり)で墨を摺り、教科書の指定された部分を筆で黒く染めて、教科書が真っ黒くなった記憶がある。

・新教科書は新聞紙大
当時自由主義になった日本国の新教科書が配布されたが、その内容の記憶はないが、その装丁は新聞紙と同じ大きさに印刷されていて、それを自分で四つ折りにたたんで切りとり、とじる部分に御飯の糊(のり)で貼り合わせた記憶がある。戦後混乱期の物がない時代の出来事であり、これが普通のことと思っていた。

・復員生徒と復員先生
その後、徐々に勤労動員に派遣されていた生徒や、予科練等へ志願した人たちも復員し、生徒数も増えていった。
軍隊の学校から復員した生徒は、「明日はない身」であり酒もタバコも飲んでいた。そんな環境のなかでは、学内で酒を飲む生徒はいなかったが、タバコは学校内で吸っていたし、戦後混乱の時代のことゆえに、学校当局も黙認していたようで、学校当局もあえて特別に取り立てることではしなかった。

・校内喫煙
学校側から指定されたわけではないが、喫煙場所は「剣道」「柔道」の道場であった。(GHQの占領政策で柔道、剣道の教科は禁止され両教室は使っていなかった)復員してきたこれら生徒の多くは、タバコの常習者は軍隊生活で習慣づき、剣道場柔道場は喫煙場になっていた。

・復員先生が教壇に立つ
例をあげれば、英語を教えたK先生は、元陸軍飛行隊の将校で、敵B29爆撃機を迎え撃った空中戦の話などを、授業の間に織り込んで話してくれて、授業を飽きさせないように工夫をしていたことを覚えている。

・敵国語の例
それにしても、英語は敵国語として国民を指導してきたあの時代に、元陸軍将校が復員してきて直ぐ敵国語の英語を教えたが、当時の青年将校の学力は高かったことが想像できると共に、当時でも英語は世界共通語であり、いかに日本軍国政府が「敵国語」など押しつけても、飛行技術の中には英語は必要なものであったのかと想像している。

・滑稽な日本語の敵国語訳例
ラッパ・・・・・・曲がりまがり発生器   等、
敵国語として日本語に当てはめて最も滑稽な例の一つである。
軍隊でも起床ラッパ、進軍ラッパ等と使っているこの言葉を、実際にどう呼称したかは不明だが、「曲がりまがり発生器」等と呼称したのは不自然だ。
ほとんどの外国語を日本語表現にしたが、軍部独裁政権はここまでやるのである。また弾圧により、それを阻止する動きがほとんど起きないのが、独裁政権の特徴かもしれないが、おかしな話である。

・復員先生の服装と授業
物資のないこの時代は、戦後復員してきた先生の服装は、所属軍隊から復員してきたそのままの服装で教壇にたった。服装をみると陸軍か海軍かあるいは将校か下士官か兵かが分かったものだ。

・こんな光景も
授業も時間の後半中頃になるとダレテくると、気が利く生徒がいて、
「先生戦争の体験を聞かせてください」
等と、先生に話すと、先生も承知していて教科を一時ストップして、手柄話でもするかのように、面白可笑しく話して授業を和ませてくれて、生徒もその話を聞くのが楽しかったことを思い出す。

やはり、ついこの間まで、鬼畜米英を相手に闘ってきた元軍人の口からは手柄話が多く、戦争の愚かさを諭す先生はいなかったように記憶している。


次は「学校内の争議」を書いてみる。

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「戦後70年あの頃を思う」について

当時13才から14才の私が、70年も前の少年時代を想い出して書いています。
不思議なもので、書き始めるといろいろの出来事が浮かんできて、時系列別に記載することはできませんでしたがなんとか進めていきます。

不思議なことに、昨日や今朝の出来事は忘れても平気でいる今の私の脳が、70年も前の少年期の思い出が、すんなり浮かんで来るのには自分でもビックリしました。

そこで私は考えた。それは後世の為に書いておけと誰かが命令或いは指示しているものかもと思い、戦時中から敗戦後のドサクサ時代を過ごしたあの頃の思い出を書いていますが、ご一読頂ければ有り難いです。

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                   記

「戦後70年に思う」-6  2015.11.25

・初めて見た白人種  
それは今から70年前の出来事である。私は工業学校電気科2年生のとき、勤労動員で近くのK町の理研工場に派遣されたことは記述済みだが、通勤にはY駅から汽車を利用していた。その日は夜勤明けで帰宅のためにK駅で乗った列車は、D51蒸気機関車が引いてくる客車であった。

偶然飛び乗った車両の風景は普段と違っていた。車両の出入り口には銃剣をつけ、陸軍憲兵の腕章をつけた軍人2人が監視していて、その車両の中には入られないように縄が張ってあった。

他の車両が混んでいたために仕方なくデッキに立って、憲兵が監視している車両の中に目をやると、オヤオヤ?その車両の中には、我々日本人とは全く異なる白い肌をした大男たちが大勢乗っていた。もしかして、この人たちは「鬼畜米英」と言われている白人で、日本軍の捕虜なのかと直感した。

当時の私は日本人以外は、朝鮮人しか見たことがない田舎の少年である。白人など見るのは初めてであり興味を持って観察していたが、何といっても驚いたのは彼らの体格と血色の良さである。当時の日本人は食べるものもなくみんな痩せていたし、背丈も低く彼らとは比べものにならない小柄の体格であった。

彼らはどこの国の軍隊か分からないが、連合国の捕虜であることには間違いない。見るところでは捕虜になっていることなど、気にしていないように思われた。
口にはチューインガムを噛み、紙袋からチョコレートか何だか分からないが、当時の日本では見ることのできないような美味そうな菓子を取り出して、何の屈託もないような表情で食べている。

この白人達が、米英連合軍の軍人であることに間違いはない。日本軍はこの肌の白い大男たちと闘っていて、彼らを「鬼畜」と称しているのか、私の見たところでは、鬼でも何でもない普通の人間ではないかと、ウブな少年の私は不思議に思ったし、何故鬼畜などと呼んでいるのか不思議に思った記憶がある。

また、当時は闘う武器もなく食べるものもない日本では、彼らが噛んでいるガムやチョコレートなど珍しい食べ物であった。 私など口に入れたことはないし、特権階級をのぞいてほとんどの人たちは、そうであったのではないか。

目の前の白人捕虜が、戦争の真っ最中でも、この美味なガムやチョコレートを食べていたのが不思議であった。戦後知ったのだが、これらの物資は赤十字社を通じて彼らに与えられたていたのだという。

それにしても、我々日本人がサツマイモの蔓(つる)を食べていた時代に、雲泥の差だと考えるとともに、米国のようなお金持ちの国に戦争を仕掛けるとは、当時の為政者の愚かさを知らされたのは戦後である。

8月6日には広島に8月9日には長崎に原子爆弾を投下されて、甚大な損害を被り、ついに日本は1945年(昭和20年)ポツダム宣言を受託して敗戦となり戦いは終わった。(戦後70年あの頃を思う-1に リンク

次は「戦後70年に思う」-7  ・勤労動員から登校を書いてみます。

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「戦後70年あの頃を思う」-5  2015.11.7

・アダナ
2年生になる頃は名前の外に「アダナ」がつくものだ。大勢の中にはアダナをつける名手もいて、ユーモラスなアダナもあれば気の毒だと思うものもある。

私のアダナは名前を変化させた内山→チャマだった。この名前は内山であれば必ずつくようで、次兄は1回生だが同じくチャマと呼ばれていたようだし、結婚後は新潟市に居住したが、子供達もチャマと呼ばれていた。

・アダナ通りの地位に就いた人の紹介
クラスで「電気」と呼ばれていたN君がいたが、その由来は先生に指されて答えるときなどに、すぐ顔が赤くなる体質に由来していた。

しかし、その彼が卒業の頃は「社長」に変わっていた。彼は成績も良かったが新制国立大学工学部電気科に合格、卒業後大手H社に就職して退職時には系列会社の社長で定年を迎えた。
これなど誠に珍しい例だが、このアダナをつけたクラスの仲間は先見の明があったと言うべきか。

・面白いアダナ「オームさん」の紹介
戦争もたけなわとなって、都会から疎開してくる人達が増えた時期があるが、東京工業大学のK教授も出身地に疎開されて、我々工業学校の教壇にたった。教科は「電気磁気」で大学教授が我々にオームの法則を教えたのである。

まだまだ基礎もない我々に、教授が電圧と電流と抵抗の相関関係のオームの法則を教えたのだ。教授は黒板に数式を書いて大きな声で真剣に教えるが我々生徒の反応は鈍かった。

そのとき先生が
「これはオームさんの法則でしょうが!! 分かった人は手を上げて答えなさい」と黒板をチョークで叩きながら言った。そのときY君がハイと手を上げて答えた。
K教授は、
「Y君正解だ。流石にY君!」
と誉めた。
そのとき以来Y君には「Ωオーム」のアダ名がついた。

暗い時代とはいえ、大学の先生が疎開先で、当時14才の子供達に教鞭を執らざるを得ない時代があったのだ。

卒業後の同級会での会話は、あの時代についたアダナが通用するから不思議なものだ。

・アダナについて-その2
卒業後30年に同級会を開いたが、その際名簿作りに大変苦労した。30年も経過しているために正確な住所が分からない人もいたが、故郷で消防暑に勤務していたS氏の尽力でほとんどが分かったことに感謝している。

その際、折角作る名簿なら、アダナも入れれば面白くなるのではないかと、知恵を絞って編集したが、何といっても30年前のこと、なかなか思い出せなく苦労した人もいた。

どう考えても出てこない人や、アダナのつかない人もいた。アダナがつかない人は存在が薄かったものかその辺は分からない。

・勤労動員
2年生(敗戦の年)の6月に隣町のK町の理研工場へ派遣された。担当は第八工場の表面削り係であった。扱う機械は旋盤である。鉄を削るのは鉄のバイトである。グラインダーでバイトの削り方を習う。そのバイトを旋盤に取り付け、両手でハンドル操作して製品の表面を削っていくのだ。

その操作は熟練を要するもので、何とか削っていくが時々取り外してマイクロメーターで計測する緻密な工程であった。14才の子供ができる作業ではない。何を造っているのか製品の名前も知らないし、多分オシャカ(不良品)ばかり作っていたのではないかと思っている。

しかし、当時の工場内は熟練者は殆ど軍隊へ出征していて、お年寄りや徴用されたと思われる女性と我々動員学生のみであった。第八工場に動員された学生は、K中学4年生とI女学校4年生と我々2年生だった。

・夜勤勤務へ
その後夜勤勤務となった。夕方出勤し深夜12時から2時まで、布団ではなくむしろの上に横になり藁で編んだムシロをかけて仮眠し、2時に起きて朝まで働き帰宅する、この繰り返しが敗戦まで続いた。

・疲れたのかこんな事があった
何時ものように夜勤明けにY駅で下車し、自宅へ向かった途中で松林の日陰で腰をおろして一服していた。そよ風の吹く半日陰は心地よい場所だったのか、いつの間にやら横になって寝入ってしまったようだ。

午後何時頃だったかは覚えていないが、太陽が西に傾く頃人の声で目を覚まし目を開けると、顔の上でお爺さんが
「オイ!! どうしたのか、身体の具合が悪いのか」
と言っている。
「イヤ夜勤明けで休んでいたのです」
と答えると、
「ご苦労様 もう夕方だ早く帰って休みなさい」
と諭されて家路へ急いだ。

その後考えたのだが、同じ第八工場にはK中学4年生もいたのだ。それなのに、2年も下の我々が何故夜勤をしたのか。
戦後、それは学校の取り組み方次第だったのではないかと考えるようになったが、今でも疑問点の一つだ。

・長岡空襲
それは1945.8.1の夜の出来事だ。夜勤明けで早めに床に入って寝入っていると、遠く外から父の声で「孝三長岡が空襲されていている早く外に出よ!!」と促され急いで外へ出てみると、長岡方面の空は明るく赤く燃えていて、空には米軍爆撃機B29が旋回していた。

旋回しているB29が長岡上空にさしかかり、照明弾を落とすと30km以上は離れている我が家まで明るくなる強烈な光であった。その後に焼夷弾を落とすから長岡上空は赤く染まった。

B29の爆音が響いていた我が家の上空も、爆撃が終わってB29が去ったあとは静かになった。上空にB29が旋回していても、ここに焼夷弾が落とされるとは全く考えず、タダ遠くで燃えている長岡市の惨状を、遠くで眺めていたが、自分に対しては全くの無防備だったことに、静かになってから気付いた。

参考
被災状況   ネット ウィキペティァより
1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の午前0時10分の間
罹災時の人口(1945年7月) 74,508人
爆撃機の数 125機(テニアン島第313航空団)
投下爆弾量 924.3トン(各種焼夷弾163,456発)
死者数 1,476人
罹災戸数 11,986戸

次回は初めて見る異人種白人を書いてみます。




「戦後70年あの頃を思う、-4」    2015.11.6

・入学式
入学式は工業学校へ合併された商業学校東体育館で行われたと記憶している。工業学校は我々が5期生と歴史が浅く校歌がなかったためか、商業学校の校歌を歌った。

新クラスの人たちとは全て初対面である。大きな小学校出身者は顔見知りが多く会話が弾んでいたが、田舎の小さな小学校出身者の私は話す相手もなく、独りぼっちで寂しく感じたことを今でも忘れない。

*卒業後37年の同級会幹事をやった際に「まとめ集」を作り、当時の心境を詠んで配布した資料が出てきたので転写する。    

   ・「在郷から 1名合格 友はなし」       
    在郷とは(ザイゴウの訛)都会から隔たったいなか。ざいしょ。・・・広辞苑   
 

   ・「教室は右も左も 知らぬ顔」    

   ・「今の世ならいじめに遭っても不思議なし何とか切り抜け増える友達」
まあこんな心境だった。

・入学式に父が同伴
小学校卒業記念写真に父が写っているが、工業学校の入学式にも父が参加してくれた。私ことで恐縮だが父は勉強が好きだったようだ。当時中学校へ進学を希望したが、我が家では、当時87才まで生きた祖父の反対で希望はかなえられなかったようだ。

反対した理由は「百姓の倅(せがれ)に学問をさせると家を継がなくなる、百姓は健康であればそれで良い」とのことだったと、母から聞いたことがある。 確かに父の書斎には当時とすれば珍しい、**学校講義録などが並べてあったことを記憶している。その父も戦後55才で他界した。

・「支那(しな)そば」の味
さて、入学式が終わった帰り道に食堂鯖石屋に入った。
私にとっては初めての外食である。父の注文品は「支那(しな)そば」だった。(中華そばの昔の呼称、当時は中国を支那と呼び、中国への侵略を支那(しな)事変と呼んでいた。

暫(しばら)くして「支那そば」が出てきた。その臭いと味は私にとっては生まれて初めてのものだった。こんな美味な物を町の人たちは食べているのか、と、感動したものだ。私は農家だ、毎日食べている沢庵(タクアン)やイワシの塩漬け等とは比較にならない独特の味であり、あの外食「支那そば」の味は今でも忘られない。

・消えた約束の自転車
食事中父は入学後のいろいろのことを諭してくれた。 「お前も毎日片道5kmの通学は大変だ、自転車を買ってやる」といわれ、本当かと耳を疑うほどそれはうれしかった。自宅から学校までは約5kmの道程である。

当時の道路は砂利道で、足には朴歯(ほおば)である。これは当時旧制中学に入学すると一つのステータスシンボルでもあった。この朴歯(ほおば)を解説すると、朴の木でできた下駄「アシダ」であり、歩く距離により減っていくと、下駄屋で歯を入れ替えて再利用した。 履き物の一部を入れ替て再利用する考えは、今で言う「リサイクル」思想のさきがけであろう。

さて、父と約束した「自転車」はその後どうなったか。 戦争も負け戦が進み、国内情勢は自転車どころではなくなってきた。家庭にある金属製品のほとんどは政府へ供出し、御寺の吊り鐘や唐金の火鉢や指輪・刀など家宝的なものまで、金属と名のつくものはすべて供出した時代である。 生活面では殆どの物資は配給制になり、自転車など製造していたのかどうかは知らないが、申し込んでも抽選制で中々当たらず遂に実現せずに敗戦を迎えることとなった。

当時、我が家に自転車は1台あったが、父が村落の総代をやっていて忙しく、父の専用車となったため、私の自転車の夢は消えてなくなっていった。

・通学
自転車通学の夢が消えた私は、家から学校までの道路長は片道約5kmあるため、朝は家を6時30分に出て、この時代は毎朝講堂で行われていた朝礼に間に合わせていた。当時は戦時中の物資欠乏の時代であり、外にも歩いて通う学生もいて、それほど苦にもならずにいたが、一緒に入学した五郎君は自転車通学であった。

登校中に歩いていると、「オース!お先に・・!」と挨拶をして、私を置いて走りすぎていく彼をみて、自転車は良いなぁー!!と羨ましかったことは、今でも忘れられない思い出である。 自転車で通学した五郎君は東京の会社に就職したが、不幸にして50才で鬼籍に入ったという。

・後年「人間18才までに身体をつくる」と、書いた本を読んだことがあるが、自分に当てはめて、冬期間をのぞいて毎日の登下校に約10km歩いたことがプラスに作用しているのかと、83才の半病人老人爺「愚孝」は考えるこの頃である。

通学が仕事の状態では、時間的にクラブ活動は全然できなかった。父との約束で自転車を買って貰えるものと思いこみ、バレーボールの部活に入ったが、家に帰ると夜の8時半と遅くなり、とてもついていけなく退部した経験のみが残る。

・上級生に敬礼!神経を使ったあの頃
入学後変わった事はいろいろとあるが、当時は軍国時代である。学校には陸軍から配属将校が派遣されていて、教科の名前は「教練」と称して、毎週の時間割に軍事教練が組み込まれていた。その結果上級生は上官とみなしたのか、放課後に同じ学校の上級生に会うと、必ず敬礼・挙手の礼をしないと怒鳴られ、道を歩いていてもビクビクしながら歩いたものだ。

一度だけ嫌な経験をしたのを覚えている。ある一学年上の2人連れの生徒に挙手の礼をしなかったとして、私を小路に連れて行き「なぜ敬礼をしないんだ!!」と怒鳴られて、左頬を平手(ピンタ)で殴られたのだ。正に軍隊の学生版であり、これらの出来事はどの中等学校でも行われており、当時の軍国教育とはこんな状態だったのである。

・学校では何を習ったか
敗戦1年前のこととて、若い先生は軍隊に応召されてお年寄りの先生が多かった。工業学校だが専門的なことはほとんど教えてもらえず、製図の書き方くらいで、国語・数学・英語を中心に地理歴史などは一応習ったが、この頃は「英語」は敵性語化されていなかったのか、商業学校の先生に習った記憶がある。

書道は正課としてあり、教頭の勝脵先生から「永字八法」を教わった。30才過ぎに書道を習ったとき、昔習った「永字八法」を思い出したものである。 しかし、戦争も敗戦に近づくにつれて、教室から出て勤労動員と称して運送会社の荷役作業などにかり出され、だんだんと勉学の機会は少なくなったいった。

・こんなこともあった
ある時勤労動員で荷物運びをしていたとき、南京袋が破けて白いものが見えた。なんだこれはと、指につけて舐めてみると砂糖である。当時は砂糖など貴重品だ、あるところにはあるものだと、みんなで空き弁当箱に入れて家に帰ったことを想い出す。

・体育の時間は体操と称したが、あの頃はグランドを走るか、相撲がほとんどであった。担任のアダナはトンジーと言い、生徒に相撲をさせてその結果、勝てば「もっと強く勝て」と、負ければ「何だそのざまは!!」と、校庭の回りに植えてあるプラタナスの葉をしごいた小枝で、背中を叩かれて赤くなったものだ。

・あの頃だから許されるあるエビソートの紹介
怒鳴られ叩(たた)かれるのを嫌ってクラスの一部の人達が一案を立てた。
稲刈りも終わった秋の頃、例の体操の時間になった。トンジー先生が笛を吹いて駆け足を命令したそのとき、生徒が「先生ウグイスの餌をとりにいきましよう」と声をかけると、先生は「休め」と号令をかけ笑いながら教務室へ向かった。

暫くして出てきた先生は空き封筒を持ってきた。その空き封筒を適当人数に分け与えた後、「キョツケ」「右向け右」「駆け足と」と号令をかけて、町外れの田んぼに向かった。

そこには刈り取られた稲のカブツがあり、それを割くと中から虫が出てきた、ズイムシと称する害虫(今は農薬でこの虫は殆どいないという)である、これを手でつかみ出して封筒へ入れた。

大勢でとるから虫は忽ち封筒にいっぱいになつた。先生は頃を見計らって「止め・・・!!」と号令をかけ、駆け足で全員学校に戻った。
先生はウグイスの餌がとれて上機嫌で、その後の授業の相撲では鞭の使い方が変わったなどとクラスメイトと話したあの頃を想い出す。
今ならこのトンジー先生は懲戒処分だろうが、国中が混乱していたあの時代の懐かしき思い出である。

・2年生になる (1945年)
新学期より工業学校の校舎へ移り、実習室なども完備されていて、やっと工業学校らしい教科を習うことができると期待したが、戦争はますます敗戦色が濃くなり、日本中が軍事一色になっていった。

当時3年生以上の人たちは各地の軍需工場へ勤労動員されていて、学校の教室はガラガラで、我々2年生も6月から隣町の理研製作所柿崎工場へ勤労動員されることになるが、7月には海軍少年兵を志願し試験を受けた。

その際に立ち会いの海軍軍人が「貴様達は国のために海軍を志願したのだ。・・・・」などと説諭されたが、「貴様達・・・」と聞き慣れない言葉に反応した私は、まだ入隊もしていない我々に貴様とは・・・きついではないかと反応した記憶がある。

しかし、軍歌に「貴様と俺とは同期の桜・・・・」とあり、貴様の言葉の意味も分かってきたが、合否結果が分からないうちに敗戦になり、今考えると運が良かったと思っている。 

次回「戦後70年に思う、-5」は、戦時中勤労動員で表面削り係りで夜勤をした話や、白人捕虜を見たことなどを書いてみる。

           ***********************


「戦後70年あの頃を思う、-3」  2015.10.20

・商業学校廃止
私が工業学校電気科へ受験した昭和19年は、中等学校の商業学校をなくして工業学校へ合併させた年であった。

その理由は、戦争も真っ最中で、男性の殆(ほとん)どが軍隊へとられて工場で働く青年がいなくなったことにある。当時準技術者養成の即戦力として工業学校が見直され、即戦力にならない商業学校は廃止して工業学校へ合併させたというわけだ。戦時中のことだが、当時の政府の決定は今では考えられないような乱暴さであった。

・学科試験がなかった
商業学校がなくなった分工業学校への希望者が多くなるのは当然だが、不思議なことに受験の際の試験に筆記試験はなく、身体検査だけだった。

なぜかと不思議に思っていたが、何(いず)れの県でも同じことが分かった。ある著名な学者で私と同年の人物が、その辺を書いている記事を読んだことがあるが、それによると、やはりこの著名な学者も旧制中学入学に、学科試験はなかったと書いていた。

昔、その辺のことを故郷の先輩に聞いたところ、昭和19年20年は全国的に学科試験はなく、村内の各小学校卒の中等学校受験希望者を、役場が成績により割り振って、各学校へ入学を推薦して決めていたと教えられた。

学校差もあるのに、どんな方法で決めたかは知る由もないが、決める学校も難しかったと思うし、随分乱暴な選抜方法である、私は運良く希望の電気科へ何とか合格していた。

私は田舎の小さな小学校出身だ、中等学校へは2名受験したが、同期の(五郎君)も同校の工業化学科へ合格し、2人で喜び合ったことを覚えている。
彼は東京の会社に就職したが、50才で他界したとお聞きした。故郷の大事な友人を亡くし残念である。

・初めてみる電話機
入学試験会場は商業学校校舎だった。3年生以上の生徒は工場へ勤労動員されていたので、空になった教室に税務署の一部が入っていた。

その隣の部屋が我々受験者の控え室だった。大きな小学校出身者は友達も多いのでガヤガヤと騒いでいたが、田舎の小さな小学校出の私など話す相手もなく、神妙にしているしかなかった。

・初めてみる電話機と通話
控え室に待機していると、隣の部屋で電話機のベルの音がした。税務署の業務用電話機が鳴ったのである。私は廊下に出て、隣の税務署の事務室をのぞいてみると、壁に取り付けてある電話機に向かって、税務署の職員が業務上の話をしていた。

私は初めて見る電話機による会話風景だ、相手がいなくとも話ができるこの便利なツール電話機に興味が起こり、知識では知っていたが、これが電話機か・・・便利なものがあるものだ・・・。相手はいないのに声だけ出して話し合うことができるこの光景に見とれていた。

後に分かるのだがこの電話機は壁に取り付ける「デルビル電話機壁掛け式」で、戦後暫く普及していたタイプで、一般的な電話機であった。

私のような在郷育ちは初めて見る光景である。電話機の仕組みは知識の中では何となく知っていたが見るのは初めてである。

田舎の村落には電話機を設置している一般家庭などは皆無であり、電話は役場や開業医くらいしか設置されていない時代で、私の小学校にもなかった。
その当時、税務署員が相手は見えなくとも話をしている光景を見て、大変進んだ社会があるものだと思った。

私は縁あって後々この筋で飯を食わしてもらうのだが、当時これは便利なものだ、電気の力で可能なのか、電気科を選んで良かったと思ったことを記憶している。

時代は変わるもの、今は一人1台のケイタイやスマホを持つ時代だが、当時電話機が設置されている一般家庭などほとんどなく、ステータスシンボルであった。

・入学発表と人権無視の時代
電気科の定員は普通は40人だが、戦中であり定員も増えて45人に補欠2名の計47名が入学を許可された。人権など無視していた時代である、合格者の氏名が体育館で発表されたとき、45人の続きに補欠入学****と氏名がハッキリ書かれていた。今ではとても許されるやり方ではない。狂っていた時代だからこそこんな発表をしても、どこからも苦情はでないのであった。
幸い私は19番目に名前がありホッとしたことを今でも忘れない。

・全てが狂っていた時代
試験なしで入学できることは、今の子供たちからみると羨ましいと思うが、国が滅びるかどうかの瀬戸際には、国全体が狂った方向へ向かっているのに正当化されるなど、いろいろのことが起こるものである。

太平洋の島々が米軍に占領され、南のサイパン島から飛び立ったB29により、日本本土は爆撃されて焦土と化していった1944年(昭和19年~昭和20年)時代の話だ。
今でこそ子供たちは将来に夢を持ち、進路問題で大騒ぎをしているが、こんな理不尽が正当化された時代もあったことを忘れてはならない。戦争などしてはならないと強く訴える。

次は「戦後70年に思う、-4」 ・自転車購入の約束が飛んでいった
にご期待下さい。




戦後70年あの頃を思う、-2     2015.10.12    愚孝

・人生とは早いもの
私もいつの間にか平均寿命とやらを越してしまった。
以前当ページに「戦後70年に思う1945.8.15 あの日は」 を、2015.8.16に記載した際に「続きは機会をみて書きたいとおもう」と書き、気にしていたが、ようやく筆を起こす気になった。

敗戦1年前の1944(昭和19年)に旧工業学校電気科へ入学し、2年生14才で柿崎理研工場へ勤労動員されて夜勤をしたことや、戦後のドサクサを、筆の赴くまま書いてみる。

・ 早生まれ
私は1932(昭和7)年3月22日生まれで、後10日遅いと一学年遅くなるギリギリの所で、オギャーとこの世に生を受けてきたようである。したがって3月生まれは、その後工業学校へ入学した頃は体格も見劣りし、いつも背の順に並べると前の方に位置していた。

今では考えられないが、当時は中等学校には尋常小学校高等卒の連中もいて、最年長は2才年上となり、体操(体育)の時間に裸になると脇の下に毛が生えている同期もいて、自分はまだ子供で産毛だったのに、同じ同級生でも違うものだと思っていた少年の頃を思い出す。

・生まれた頃の国際状勢
長ずるに従って、自分の生まれた年1932年(昭和7)は、日本では軍閥が勢いを増してきて、世界の歴史に大変換を起こした時代であることが分かった。
要点を列挙してみると、

国内外では  
1. 8 朝鮮陣李幸、桜田門外で天皇の馬車に爆弾を投げる。  
2. 9 前大蔵大臣井上準之介血盟団に射殺される。  
3. 1 満州国建国宣言  
4.29 天長節で朝鮮祝賀会で襲撃、中華重光公使ら多数負傷  
5.15 陸海軍将校により犬養首相・「問答無用で」  
6.29 警視庁に特別高等警察設置 思想犯対策に乗り出す。
7.31 第10回オリンピック・ロス大会で南部忠平氏金メダル獲得 外国では  
1. 1 中国将敬介石、王兆盟と合体新国民政府樹立  
2.29 国際連盟リントン調査団、日本中国満州を調査  
3.31 ヒトラー独ナチス党結成
4. 8 米国大統領F・Dルーズベルト当選

このように、私が生まれた年は世界が大混乱の手前にあったことが分かった。

昭和初期頃から軍部が着々と政治に干渉しはじめ、中国侵略をはじめていた。簡単に要人を暗殺するなど正に背筋が凍る思いである。

また、ヨーロッパでは第一次敗世界大戦敗戦国ドイツで、ヒトラー率いるナチス党が台頭し、ヨーロッパ情勢は緊迫していた。

このように世界情勢は緊迫の度を増していった。 盧溝橋事件に始まる満州事変1931年(昭和6年)から、支那事変1923年(昭和12年)へと戦火は拡大し、日本軍の中国大陸侵攻は進んでいった。

・戦争の波
私の住む村落にも軍国主義の波は押しよせ、村落の多くの青年が軍隊に招集された。青年たちは「祝入営」と掲げられた門を、村落の人々の祝福を受けて出征していったあの光景を昨日のように思い出さされる。

またその頃には、南京・北京・上海の陥落を祝う旗行列や提灯行列など、国民の戦意高揚を図る策が国民的行事として行われ、子供の頃の私もその行列に参加した記憶がある。

また1941年(昭和16)には米英に宣戦布告して大東亜戦争に突入した。緒戦は勝ち戦で進んだが、圧倒的な物量には叶わず、戦局が不利になるにつれ、帰らぬ人となる人も多かった。

小学校の高学年の頃は兵士出征の際には駅頭までお送りし、不幸にして戦死や戦病死され、無言で帰還された方々の慰霊を駅までお迎えに行き、その後行われる村葬にも参列した。

戦争初期に行われた村葬では、ご遺体は1名のみであったが、敗戦色が濃くなると、複数の方々をまとめての村葬が増えていったことを記憶している。

・どこに吹いた神風、マインドコントロールに罹った日本国民
「いつか神風が吹いて日本国は勝つ」と神がかった精神力のみを指導し、戦術と言えば、最後は本土に上陸した敵兵を竹槍(たけやり)で討つ等と、今では信じられないことを国が指導したのだ。気がついた時には住むところも食べるものもなく、B29の空爆により焦土と化した日本列島のみが残った。

神風など吹くわけはない、極一部の識者を除いた我々一般国民は、完全に軍国政治のマインドコントロールに罹(かか)っていたのである。 この戦争が正義でないことを知ったのは、1945(昭和20)年8月15日の敗戦によりアメリカに教えられたからだ。

我々は戦争による多数の犠牲者によって民主主義という宝を手にしたのだ。これからも大事に育てていかなければならない。

・次回は「戦後70年に思う」 -3
「入学試験に学科試験がなかった話」にご期待下さい。

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結局は成立した安保法案   2015.9.26   愚孝

安保法案は多くの国民や学識経験者等の猛反発を受けたが、結局は自民党の筋書き通りに成立した。要するに我々有権者の脇の甘いところをつかれた形ではないか。衆参議員が絶対多数であれば、憲法をないがしろにした法律でも何でも作ることができる証明でもあった。

議員の質について見ると、要するに戦争を知らない戦後教育を受けた子供達の集まりと私は受け取る。小選挙区制になってからは、次期選挙で公認を外され落選失業を避けることだけを考えて行動しているようで、国家百年の計を考えて行動している議員はいるのかとさえ思うことがある。このような案件に対して、党内造反者が出なかったことは不思議に思っている。

昔のような派閥政治は悪癖はあるが、根性のある政治家がいたものだ。今自民党内を見てどれもこれも小者の集まりで、この小者議員諸侯は国民への視線を向けず、安部総裁の顔色をみて行動しているように見えてくる。

議員はサラリーマンではない選挙区の代表だ、自らを主張してこそ議員であるが、そのような議員が見当たらないのは淋しい限りである。

多くの有権者の反省点として、経済対策を期待して自民党に投票したが、憲法に違反する安保法が突然出てきて成立するとは、夢にも思わなかったのが現実である。

次期選挙から参政権が18才以上に引き下げられるから、投票結果は未知であるが、先ず来年行われる参議院選挙には、このような轍(てつ)を踏まないような投票行動を考えていこうではないか。

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今の政治を憂慮する    2015.8.30        愚孝

昨14日安部総理が閣議決定した「戦後70年に当たっての談話」を発表した。その内容はいろいろと取りざたされているが、満州事変に始まる中国大陸への侵略や、旧朝鮮半島人女性を強制的に徴用して、旧日本軍の性的な相手をさせた女性軽視の誤りを謝罪した内容であり、懸念された先の村山、小泉談話の内容は一応取り入れられていた総理談話であった。

談話の中で「歴史から未来への英知を学ばなければならない」と、世界に発信した以上は、これから採決されると思われる安保法案などへの影響がでるのではないか。また「未来の子供達に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と謳い、次世代へも考慮をした点は正にその通りだと思う。

各国の反応はマアマアのようであるが、村山談話、小泉談話の精神が盛られており、一応の評価はできる。しかし、口で言うのは簡単だが右傾の総理が政治に取り入れていくにはそう簡単ではないはずだ。総理に申し上げたい、明日から、嘘はつかない政治をやってほしいのである。 

そもそも前回の選挙公約の中に自民党は、「集団的自衛権の行使を可能とし、『国家安全保障基本法』を制定」を訴えていたが、憲法改正が無理だと判断すると「閣議決定」で安保法案を決定し、与党自民党の圧倒的多数の衆議院で採決され、今正に参議院で審議の真っ只中である。

今正に参議院で審議のまっただ中であるに関わらず、先日安部総理は審議は尽くされたと、採決を議長に促す答弁をしたが、このような安保法案など、憲法に抵触するのは明らかだ、と有識者の多くは反対し、国会周辺では反対デモが続いている。

この中で安保法案を採決すれば国民の怒りは増すばかりだ。前回の選挙で期待したのは、憲法に抵触するような安保法案ではなく、経済政策であったはずだ。

本当に法案を通したいのであれば、先ず憲法改正の信を国民に問うてから進むのが道理ではないのか。押し通そうとすることは、それこそ憲法を無視した暴挙である。

今、審議している議員は戦争の経験が無い層である。70年前のあの忌まわしい戦争に進むようなことは絶対にしてはならない。実際の戦争を知らない人達が、後方支援がどうのこうのとやりとりしているのは、見ていて歯がゆいのである。

忘れてはならないのは、戦争は戦地で闘う兵士だけのものではないのだ。日本全土がB29爆撃機により焼け野原になり、兵士を含めて約300万人の犠牲者を出したあの戦争はつい70年前のことである。

以上、この時代を少年で経験した、今の右寄り政治を危惧する一老人からのMessageである。

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戦後70年あの頃-1 1945.8.15 あの日は    2015.8.16  愚孝

年月のたつのは早いものである。1945(昭和20年)年8月15日の敗戦からもう70年もたったのか。私の頭の中は一瞬にして、あの70年前の8月15日の風景が浮かび上がってくるから、人間の記憶とは大したものだ。

敗戦の8月15日は、勤労動員(13才)で働いていた職場の夜勤明けで家にいた。今日正午に、生き神様天皇陛下の「玉音放送」があるから聞くようにと父から言われていた。

戦時教育で洗脳されていた私は、天皇陛下がラジオ放送するとは、これは大事なことがあるのではないか、多分本土決戦に備えて最後の1人まで闘いと、国民を叱咤(しった)激励するための放送でないかと思って正午が来るのを待っていた。

時報が鳴り、アナウンサーの天皇陛下の玉音放送に入る旨の案内があり「君が代」が聞こえてきた。その後天皇陛下のお声が放送を通して聞こえてきたが、難しい言葉で話されたのと、雑音混じりで聞きづらかった記憶はあるが、洗脳されている私は、まさか戦争に負ける等とは夢にも思わなかったので、初めて聞く、天皇陛下の人間離れした声に興味を持った。しかし、その内容はほとんど理解できなかったのが真実である。

放送が終わった。いつか神風(*1)が吹いて、神の国日本は必ず勝つと教えられていた我々国民のほとんどが、この放送を聞いて敗戦だと思った人は少ないのでないか。私もその1人である。

サイパン島を発った米国軍機B29爆撃機による、日本の主要都市への空爆による焼け野原等、新聞やラジオのニュースから、何となく負け戦続きだと感じていたが、まさか無条件降伏するとは露ほども考えず、暑い残暑の中、縁側で涼んでいた。

放送後どれくらいの時間がたっただろうか、役場の小使いさんが自転車に乗って我が家に来た。
当時、父が今で言う町内会長をしていて、役場の小使さんは時々訪問するので、特別なことが起こったとは考えもしなかったが、この日の小使さんは自転車を降りるなり大きな声で、「村長さんからの伝言だ、お父さんはいないか」と問われ「今出掛けている」と応えると、小使いさんは、半ば投げやり的な言葉使いで「日本は戦争に負けたと・・・、神風が吹かなかった・・と」と、大きな声でお父さんに伝えてくれと言って、次の村落へと去っていった。これが敗戦の公式ルートの通知であった。

これを聞いた私は驚いた。神国(*2)日本は必ず神風が吹いて必ず勝つ。と教えられてきたのに、なぜ負けたのだろうか。なぜ神風は吹かなかったのか・・・等と、軍部のマインドコントロールにかかっていた私と多くの国民は、負けることはないと信じていた。それなのになぜ負けたのだ。敵国米英を鬼畜呼ばわりして国民を鼓舞していたのに、負ける理由がないではないかと思っていたが、これが偏向教育の恐ろしさである。

後になって全て知るわけだが、北のアッツ島や南のサイパン島の玉砕(*3)など、数多くの日本軍の玉砕が公式に伝えられたが、正に前線基地のほとんどは全滅し、兵隊は闘う武器もなく、食べるものもなく餓死していったのに、軍部は玉砕などと美名で形容して、負け戦を国民に教えなかった。

当時の我が国は、太平洋の制海権と制空権を全て奪われていたにも拘わらず、ラジオ、新聞に流される大本営発表は、勝った勝ったの虚放送で、国民をコントロールしていたのだ。
重ねて言うがこれがマインドコントロールの恐ろしさである。

*(*3)玉砕・・[北斉書(元景安伝)「大丈夫は寧(むし)ろ玉砕す可きも、瓦全する能(あた)わず」]玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと。

当日の夕食は両親と姉妹と私の5人で、出征している長兄と次兄が、無事帰還できるかどうかの話題でシーンとしていたことを思い出す。

翌日、私は勤労動員先の柿崎理研工場へ向かった。全工場の動力源を絶ったのか、工場内は機械的な音は何一つ聞こえず静かであった。我々は同級生と工場の中庭に集まって、米国人は鬼か、これから先はどうなるのか等と話し合っていた。

10時頃、全員講堂に集まるように指示が出て、集まってみると、そこには年取った男性と、若い女性や勤労動員された我々学生だけであり、(当時は若い青年は軍隊へ行き、残されていたのは女性と我々のような子供のみ)それだけで講堂一杯になった。

暫くして壇上に上がった工場長は、片足が不自由な40代くらいの男性であった。後から聞いた話だが、彼は長岡高等工業学校卒のエンジニアで、足が不自由のために兵役につくことができなかったのだと知った。

工場長の訓話がはじまった。詳しくは憶えていないが、此処だけは憶えている箇所がある。
「・・・・・日本は負けたのではない。負けたふりをしているのだ。日本人の心までは降伏はしていない。この恥は孫子の代まで伝え、必ず仇をとろうではないか」と威勢の良い訓示であった。

終了後講堂を出て歩きながら、同級生の一人が「負けたいうのに負けたのではない・・か。強がりを言っているなー・・・」と、一人言を言っているのを思い出す。
インテリクラスの工場長でさえこのような考えで、完全に軍部のマインドコントロールにかかっていたのである。

しかし、私自身は戦争が終わってホットした気持ちが優先し、負けたことについては、これから鬼と言われた米兵に占領されて、どうなるのかと考えるのが精一杯であった。

翌日久しぶりに登校したが、先生は今までの価値観が崩れて、何を成すかすら分からない状態で、その後混乱の日々は続いていった・・・・。

私を含めて多くの国民は、世界に民主主義という主権在民の政治手法があることなど知らなかったのである。

続きは機会をみて書きたいとおもいます。

(*1)神風とは・・広辞苑より
鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの兵10万を送ったが、2度とも大風が起こって元艦の沈没するものが多かった。蒙古襲来。文永・弘安の役。

*(*2)神国・・広辞苑より
神が治める国。しんこく。夫木和歌抄(30)「―と豊葦原を定めおきて」
「かみごおり」に同じ。

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原発をクリーンエネルギー等と嘘をついてきた政府 2015.5.30 愚孝

歴代の政府は、長年に亘って原発は一酸化炭素は出さない「クリーンエネルギー」だと、国民を騙(だま)してきたが、今回の福島原発事故発生により、全くの虚であることが、IAEA(国際原子力機関)報告書に発表され、5月25日付け新聞紙上で詳細に掲載されたので追って見る。

噓は泥棒のはじまりと親から教えられたが、歴代政府は「原発はクリーンエネルギー」という嘘を国民に定着さたが、これは原発の基本問題で嘘では済まされない問題である。政府が嘘をついてはならない。
大東亜戦争時も鬼畜米英などと教わり指導され、政府の嘘に巻き込まれた苦い経験がある。最高の権力者政府は、国民を騙すことなど簡単のようである。

IAEAの指摘事項を要約すると、
「東電が原発事故の数年前、福島県沖でマグニチュード(M)8.3の地震が起きれば、第一原発を襲う津波の高さは15㍍に及ぶと試算していたが、対策を怠ったと批判。原子力安全・保安院も迅速な対応をとらなかった。

その背景には原発は安全との思い込みがあり、IAEAが各国に勧告する安全評価方法を十分実施せず、非常用電源対策などの浸水対策を欠いていた。

原発で働く電力社員らは過極事故対策に対する訓練は受けておらず、津波による電源や冷却機能の喪失への備えも不足。原発事故と自然災害の同時発生に対応するための組織的な地養成もなかった。・・・」IAEAの提言と続くが、

津波について
福島県沖でマグニチュード(M)8.3の地震が起きれば、第一原発を襲う津波の高さは15㍍に及ぶと試算していたが、その対策を怠ったと批判されている。原子力安全・保安院も迅速な対応をとらなかった。
何故だ。「原発は安全だという「安全神話に染まっていて」原発の危険度を軽視した結果ではないか。結果的に18㍍の津波が襲ったが、15㍍の防波堤があればかなり結果は変わったのではないかと想像できる。私が考えるに正にその通りだと思う。

原発で働く電力社員の原発事故対策訓練について
最も危険な原子力を扱う社員の事故対策訓練が成されていなかったとは聞いて驚きだ。幾ら訓練をしてもしすぎと言うことはない。いざと言うときに対応できる体制が何故組めなかったのか。私なりきの考えだが、これも原子力は安全だ!!の思想からでたものであれば大問題だ。

地質について
原発設置時に地下に断層があるかないか、又それが活断層かどうかと、頭の良い専門家が発表をするが、結局電力会社側の学者の主張が通り建設されてきた経緯がある。

柏崎市出身である私は「柏崎刈羽原子力発電所」については、建設用地買収のころから見まもってきたが、その際も、反原発側から「活断層の上に立てるのは危険だ」と異議がでたが、一方東電側の地質学者は活断層ではないと争い、結局は東電の主張通りに、原子力発電所の建設が始まった遠い昔の経緯を思い出す。

福島原発事故後の今、再稼働に向けて敷地内の地盤を掘り起こして妥当かどうかを、原子力安全委員会が掘り起こして活断層か否かを検証しているようだが、たとえ断層があっても、断層の上にある日本列島だ、活断層か否かの判別ができるのだろうか甚だ疑問をもっている。

箱根の水蒸気爆発が始まった頃だと思うが、あるラジオを聞いていた。そのときに出席された地震学者の名前は失念したが、
学者いわく
「火山の爆発など3千万年前から始まっているし、まだまだ続いていて何時何処(どこ)が爆発するとか、何時頃何処(どこ)に地震が発生するかなどの予知は不可能な問題だ。ただ、そのような危険な地盤の上に生物人類が生きているのであり、突然どこかの火山が爆発することがあっても、自然であると考えた方が良い。長い地球の営みの中で、其処(そこ)に生物は生かしててもらっていると考えるのが正しいのではないか」
と、発言されていたが、正にその通りだと思う。

私が現役の頃、近く東海大地震が発生すると大騒ぎしたことがあった。私は現場の末端のでその一部を担当し対応策を実施してきたが、あれから50年も経過するのに何の変化はなく、予測の大地震がなくてよかったが、現在はそれ以上大規模な東南海地震の発生に変わって、世の中が惑わされているのが現状である。東北大地震を予言した学者等はいたのだろうかと言いたくなる。

原発交付金などの主な流用先
原発に話を戻すが、東電柏崎刈羽原発の場合、柏崎市と刈羽村の土地にあり、原発建設による国からの交付金や、東電会社より多額の補償金が交付されていて、正に原発漬けかと思わせるほど、市や村には新しい公共の建物がアチコチにできているのを、帰郷の都度感じていた。

そこで一言
以前同級会で、柏崎に住む同期の一人が酒を酌み交わしながら、
「アチコチに多くの箱物を作ったが原発交付金がなくなった時に、建物の維持管理を税金でやらねばらぬがそれが気になる」
と言ったことを思う出す。

市民はどう考えているか前回の総選挙結果から見てみる
刈羽村では圧倒的に原発賛成派が勝ち、柏崎市の場合はそれほど顕著ではないが、原発再稼働を良しとする票が多数を占めた。

その訳は、福島原発爆発後の今も、その驚異よりも目先の経済が優先していると考えられる。現に柏崎市など全原発休止後は原発関連労働者(約6.000人)が激減し、市の活気はなくなっているという。40年以上も原発とともに生きてきた市民は、理屈は抜きに現在の生活が大事であり、そのためには原発を再稼働して、昔の景気を取り戻したいと考える人も多いのも事実である。

元総理小泉氏が今ごろ
「核のゴミのやり場のない、原発には反対である」
と、発言しているが、最近核のゴミが出たのではない。スタート時点から今も同じであり、小泉氏は総理のときもでていたはずなのに、なぜこのときアクションを起こさなかったのか、外野に回った今、いくら叫んでも「気の抜けたサイダー」の感をいなめない。

以上政府の宣伝文句「クリーンエネルギー」は虚であったことと、東電が津波対策の防波堤構築を怠ってきた結果の大事故であることが、IAEAの勧告により分かったが、地質の問題や原発による経済への依存について、働きの悪くなってきた脳を働かせて考察してみた。

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鼻歌-2   2015.4.17         1029

「鼻唄-1」で書いたが、「鼻唄は健康の証拠」と広辞苑に書いてあるとおりで、妻の鼻唄も術後の回復が順調の証だと思って聞いている。

歌っている曲は昔の軍歌が多いようだ。考えて見るとあの頃は日本国はすべてが軍の統制下の時代で、まともな流行歌などはなく、耳に入る歌はほとんどが軍歌であった。

ある日台所から出てきた妻に、
「今の歌の曲名何だったかね?」
と聞くが、歌の名前がでてこない。私も歌詞は所々は覚えているが覚え出せない、、3才違いの妻も戦中戦後を生きてきている、あの頃は子供達が歌える歌など満足なものはなく、時節柄国策の軍歌全盛の時代であった。

我々もお互いに年令をとったのだ。題名を思い出そうと必至だがなかなか出てこない。そこで、こういうときこそインターネット検索だと思い、「軍歌」で打ち込んでいくとありました。
その題名は日露戦争時の「戦友」だった。
流石インターネット!!その威力に感心し驚くばかりだ。

では、なぜこの歌「戦友」が妻の口から歌われるのかを考えてみると、妻の父は、戦中は満州鉄道へ勤務し、家族は満鉄の社宅住まいで、妻は満州ハルピン生まれだ。
* 満州・・・・現中国東北部

満鉄に勤務している父は、国策で進められていた満州に、大いなる夢と希望を持って祖国を離れたが、母は、何も満州まで来なくとも日本の鉄道に勤務していればいいものに・・・の思いは強かったと思う。

本国から遠く離れた満州の地で、故郷を思い出しては歌っていたものを、幼い妻が記憶していたものと思っている。

日露戦争の頃に作られた「戦友」の歌詞が、当時この家族環境と一致しており、母は遠く東の空(日本)を見ては、祖国故郷を懐かしみ歌っていたものと想像する。
ここで、その歌詞の一節を書き留めてみる。

 ♪ ここはお国を何百里    離れて遠き満洲の
   赤い夕日に照らされて  友は野末の石の下

長い歌詞の冒頭の一節だが、遠い日本を思い起こさせるには十分の詞である

この歌の曰くを、インターネット辞典 Wikipediを索引すると次のようにあった。
「戦友(せんゆう)」は明治38年、まだ日露戦争が続いているときに作られた歌です。本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った、極めて長い「学校及び家庭用言文一致叙事唱歌・戦績」という10編から成る唱歌の中の第三篇でした。

作詞者・真下飛泉(ましもひせん)には戦争体験はなく、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(ほうてん・現在の中国東北部の瀋陽市)会戦の実情を聴いて作詞したと伝えられています。

戦友を失う兵士の悲哀を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀愁極まりない曲が人々の共感を呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。戦前の日本でこの歌を知らない人はなかったといわれます。

唱歌「戦友」を軍歌という人もあるが、私は、唱歌「戦友」は軍歌ではなく、反戦歌でもなく、戦死者を弔う鎮魂歌だと思います。戦時中、軍部は出征兵士を送るときにこの歌を歌うことを禁止しましたが、この歌が絶えることはありませんでした。現在でも愛唱する人は多いと思います。                   ・・以上ネットより。

日露戦争は遠い昔の出来事のようだが、明治38年(1905)は今から110年前の話で、そう遠い昔話ではない。

この歌詞は、遠く満州(現中国東北部)に派遣された兵士の心情を歌ったものだというが、前著のように、父は旧満州の満州鉄道(株)の職員で一家も敗戦までハルピン市で生活していた。母も遠く離れた満州の地で、故郷を思い出して歌っていたのではないか。それを聞いていた幼少の妻は自然に覚えたこと思っている。

1945年8月15日の敗戦によりソ連軍の進入をうけ、今までの生活は忽ち破壊され、長女は急性肺炎で死去し、子供3人と両親が命からがら帰国した。私も同年代育ちであり、この歌詞はある程度知っているが、題名まては覚えていなかった。

この歌を歌っていると、何故か胸にくるものがあるから不思議である。
以下にその全歌詞を記してみる。

「戦友」 
     明治38年  作詩 真下飛泉  作曲  三善和気 (旧かな)
1 ここはお国を何百里   離れてとほき満洲の
  赤い夕日にてらされて  友は野末の石の下。

2思へば悲し昨日まで  眞つ先驅けて突進し
 敵を散々懲らしたる  勇士はここに眠れるか

3 ああ戦の最中に 隣におりし此の友の
 俄かにハタと倒れしを 我は思はず駈け寄りて。

4 軍律きびしき中なれど  是が見捨てて置かれうか
 「しっかりせよ」と抱起し  仮繃帯も弾丸の中。

5 折から起る突貫に 友はやうやう顔上げて
 「お国の為だ関はずに 後れて呉な」と目に涙。

6 あとは心に残れども  残しちゃならぬ此身
 「それぢゃ行くよ」と別れたが  長の別れとなったのか。

7 戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では
 どうぞ生てゐて呉れよ 物なと言へと願ふたに。

8 空しく冷えて魂は  故郷へ帰ったポケットに
 時計ばかりがコチコチと  動いてゐるも情けなや。

9 思へば去年船出して  お国が見えずなった時
 玄海灘に手を握り  名を名乗ったが始めにて。

10 それより後は一本の  煙草も二人わけてのみ
  ついた手紙も見せ合て  身の上ばなしくり返し

11)肩を抱いては口癖(くちぐせ)に /どうせ命(いのち)はないものよ /  死んだら  骨(ひね)を頼むぞと /言い交はし(かわし)たる二人仲(ふたりなか)
                      
12 思ひも寄らぬ我一人   不思議に命ながらへて
  赤い夕日の満洲に  友の塚穴掘らうとは。

13 くまなくはれた月今宵   心しみじみ筆とって
  友の最後をこまごまと  親御へ送る此手紙。

14 筆の運びはつたないが  行燈のかげで親達の
 読まるる心思ひやり  思はずおとす一雫

*音声でお聞きなりたい場合は下記をクリック
   「戦友」
 
こんな優しい心の軍歌を歌っていた頃もあったのに、大東亜戦争末期になると、国のためには人間の命などハガキ一枚三銭五厘扱いの時代(赤紙といわれた赤いハガキの召集令状)になり、
  ・敵は幾万ありとても 全て烏合の衆なるぞ・・・・・  
のように、精神力頼みの一見勇ましそうな野蛮な歌詞に変わっていった。

私の少年期は、男子たるもの軍隊へ入り、国のために闘って死ぬのが忠義だと教えられ、戦場で死ぬのが当たり前だと信じさせられた酷い時代で、今では考えられないが人生25年の時代であった。

これを洗脳と言うが当時の日本国民1億の殆どが洗脳されていた。今でもそういう国はあるが、経験したあの時代と照らし合わせてみているとその国の国民は可愛そうである。

ここまで書いてきて何故かあの頃のことを想い出した。
「今は人生25年の時代だ・・・」
 と母に話すと、
「なんでそんなに急いで死ぬのだ、馬鹿を言うもんでないよ、一つしかない命を大事にしなければ・・・・、」
 と諭されたことを憶えている。

参考-1
洗脳された一例を紹介する。
当時の少年が憧れていた予科練、荒鷲の歌(予科練の歌)の歌詞を参考のためにご覧ください。

「荒鷲」 予科練の歌     西条八十作詞  古関裕而作曲
・若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
 今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ でっかい希望の雲が湧く

・燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉
 さっと巣立てば荒海越えて 行くぞ敵陣なぐり込み

・仰ぐ先輩予科練の 手柄聴くたび血潮が疼く
 ぐんと練れ練れ攻撃精神 大和魂にゃ敵は無い

・命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼
 見事轟沈(ごうちん)した敵艦を 母へ写真で送りたい

洗脳された一例を紹介する
こんな勇ましい軍歌を作詞作曲された西条八十作詞、古関裕而作曲のお二人も、敗戦後は数多くの名歌謡曲を残し、昭和演歌隆盛期を作った人たちである。

参考-2
お亡くなりになられたが、予科練1期生でミッドウェ海戦を零戦飛行士として戦い、幸か不幸か不時着してかろうじて一命をとりとめた元海軍士官のS氏が、御元気の頃直接お聞きした話を紹介する。

「戦争する以上は、人材がいない、飛行機がない、精神力だけでは勝てない。日本軍はミッドウェ海戦で飛行機と優秀な人材のほとんどを失ってしまった」
後に特別攻撃隊を編成して、帰りの油も積まないで体当たりを指示した軍幹部を、痛烈に批判していたがこの言葉は未だ耳元に残る。

参考-3
参考-1にも書いたが、戦争末期の戦局悪化のころは、人の命など紙切れ当然に扱われて、軍歌もだんだんと先鋭化していった。
当時、軍の指導に洗脳されていた少年の私は、何の疑問も持たずに恐ろしく勇ましい軍歌を歌っていたが、今鼻歌で歌っているのも当時の影響の現れだと思う。

あの忌まわしい戦争時代を生きた人達も少なくなっていく現在、戦争経験のない人たちが、またあの頃に戻ろうとする動きがあるやに見えるが、ああ何と恐ろしいことだ、背筋がゾッとする。

最後に、
我が国は70年前には好きなことも話せない、好きな思想を持つことも出来ない、又反政府的な事は書くことも出来なかった暗黒の時代があったことを忘れてはいけない。

戦争も負け戦が続くと、サイパン島を離陸した米軍B29爆撃機が、日本各地の都市に焼夷弾を雨あられのように落とし、1945.年8月には広島、長崎へ原子爆弾を投下して多くの人たちを被爆させて殺し、1945.3.10には、サイパン島を離陸したB29爆撃機による東京大空襲により、10万人あまりの人たちが焼死した、正に暗黒の時代であったことを忘れてはならない。

敗戦後の我が国は平和に徹する国となり、70年間戦争をしないこの平和の喜びをかみしめながら、台所から聞こえくる妻の鼻唄は、例え軍歌であっても平和の証しと思って聞いている。

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鼻 歌 - 1       2015.4.9     1028

先ず鼻歌の定義を広辞苑を索引すると、
はな‐うた【鼻唄】とあり。
「(気分のよいときなどに)鼻にかかった小声でうたうこと。また、その唄。体調がいい証拠である」とあつた。

この所、台所から鼻唄が聞こえてくるようになった。その主は妻で、それもなぜかよく歌うのは日ロ戦争時の軍歌「戦友」が多いようだ。

そもそも鼻唄の定義は、広辞苑にもあるとおり気分の良いときにでる唄だ。正にその通りで、彼女はこのところ何年も腰が痛い、膝が痛い足が痛いと、あちこちの整形外科医や鍼灸師の世話になっていたが、少しも回復の傾向は見られず、日を追って悪くなっていった。

このような体調不良の妻の口から鼻唄など出るわけはなく、もう何年も聞いていなかった。

実は、1年半前頃の妻は、体調不良で鼻歌など歌える身体でなかったのだ、両足股関節の大手術が成功した結果、最近体調が良くなった妻の口から昔のように、台所から鼻唄が聞こえてくるようになった。

アアやっぱり手術をして良かったのだ。もしあのままだったら今頃どうなっていただろうか、、、、等と、あの苦しんでいた頃を振り返っている。

妻の腰や膝の痛みはすべて股関節から来ているが、この股関節手術は全身麻酔による大手術で、妻は二の足を踏んでいたが、埼玉と秋田に嫁いでいる妹が、遠いところからわざわざ来てくれて、積極的に手術を受けるよう薦めてくれた。

姉妹とは有り難いものだ、今までその気にならなかった妻の心が、だんだんと手術へと傾いていった。特に、近くに嫁いでいる長女がインターネット検索で、新潟市内の股関節手術病院3病院の案内をプリントしてきた。

それによると、新潟大学の整形外科もあったが、娘はいろいろの耳からの情報を仕入れて説明してくれた結果、亀田第一病院に股関節専門の徳永先生という評判の良い名外科医がいることが分かり、遠く県外からも患者がていること等々・・・。

今から一年以上前の一昨年の12月のある日、早速亀田病院整形外科へ電話した結果その返事は、

「混んでいるから、股関節というと初診でも3ヶ月待たなければならない、関節痛で申し込んだ方が良い」

と、アドバイスを頂き関節痛で申し込んだ。その結果一昨年の12月18日に整形外科の初診予約がとれた。

初診の日には埼玉の妹も来てくれ、翌日娘と4人で亀田病院整形外科へ出かけた。病院は評判通りで大勢の患者で待合室は混んでいた。

受付が済んで診察までは2時間はかかっただろうか、受付嬢からこのカードと書類を持ってレントゲンを撮ってきてくれと指示された。

それから1時間位経つただろうか、待ちに待った受け付け番号が電子表示版と事務員を通して伝わってきた。

早速同行者共々4人で診察室に入ると暫くして診察が始まった。診察医師は院長先生であった。レントゲン撮影フイルムを一見して、

「股関節が酷く痛んでいる、快癒するには手術しかない。当院は手術専門病院だから、手術をしないなら外の病院へ行ってくれ。当院で手術を行うなら、若くて腕の良い股関節専門医がいる。手術すれば痛みはとれて人生がパラダイスになりますよ。
苦しんでも人生、、、手術をして痛みをとれば、残余の人生がパラダイスになりますよ。当院の股関節名専門医から見てもらった方が良い」

と、院長先生は薦めてくれて、妻も徳永股関節専門医の診断を受ける決意ができ、年明け1月30日(昨年)の予約をとってその日は帰った。結局一日仕事となった。 名医となると格が違う、何と初診予約が1ヶ月後である。我々も名医の腕に期待してジッとその日を待つことになった。

そして昨年の1月30日ようやく股関節専門医徳永先生の初診の日が来た。その日も埼玉の妹も来てくれて、タクシーで娘と4人で亀田病院へ出かけた。

やっと専門医の診察が始まった。徳永先生はあらかじめ撮っていたレントゲン撮影写真を見て、

「これは大変だ。両足の股関節緩衝部分がすり減っている。人工関節を入れる手術意外に打つ手はない。手術をすれば翌日から自分の足でトイレまで歩けるほどになり、快復後は富士登山もできるし、私の患者の中に股関節手術をした翌日ベットが空なので調べて見ると、サッカーの練習をしていたという嘘のような本当の話があると、この若い医師は患者の心身安定のために、いろいろと話術を駆使して説明し、このような嘘のような話も随所に出して自信の程をチラツカセテていた」

股関節手術の予約
昨年4月に左足、次いで一ヶ月後に右足の手術をし、その後1週間くらいは入院の必要があることや、その後の対応等を丁寧に説明を受け、妻もこんな立派な先生なら安心してお任せできると納得して、3ヶ月後の4月16日左足、次いで5月14日に右足手術の予約をして、4人で帰途についたがこの日も丸一日がかりであった。

無事手術退院
予定通り昨年4月16日左足股関節手術を行い、その後右足の足股関節手術を無事に乗りきって、約40日入院後無事退院し、現在に至ったいる。

その後徳永医師の指示により
「特別なビハビリの必要はなく、主婦として家事一切をやることがビハビリである」
と言われたことを守っているが、その後の経過は良好で、台所に立つ妻の鼻歌がが出るほどに回復した。

「健康ほど有り難いものはない」

と、先祖様、天の神地の神、亀田病院および徳永医師に感謝している。

快復後に聞こえる鼻歌と軍歌の繋がりについは次号に掲載予定です。

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原発拒否に立ち向かった町  2015.3.2    1027

今、東京電力福島原発のメルトダウンにより、全世界人類に大事故の恐ろしさを知らしめたが、約10年前に新潟県巻町(現新潟市西蒲区)に東北電力が原発設置計画が発表され、それにより町は二分したが、当時の笹口町長は、反対の先頭に立ち、東北電力の計画を断念させた、その勇気ある町長の施政を、10年後の今読み返してみる。(11年前に掲載した記事)

▼天(あっ)晴(ぱ)れ!!
                2004(平成16).1.31 公開のもの
大相撲初場所は、朝青龍の全勝優勝で幕を閉じた。  
しかし、それを「天晴れジャ」とは言いたくないしその価値もない。理由は、彼が横綱としての品位に欠けていると批判されるようではお粗末である。又、今の国技相撲には貴乃花のような強い力士がいないようにも見える。したがって、この全勝優勝も、相手がみんな弱すぎるためだと爺は思うからだ。

さて、ここで「天晴れ」にふさわしい人物を紹介したい。
それは04.1.20付けで退任された、新潟県西蒲原郡巻町(まきまち)(現新潟市西蒲区)笹口町長である。笹口氏は、巻町に原子力発電所設置計画で賛成・反対派が拮抗する中、8年前に反原発を町民に訴えて町長の座を勝ち取った。

以来、賛成派の多い町議会の中で、一貫して反原発を貫き通した。また、原発問題では日本で初めて住民投票制度を取り入れ、投票の結果反対派が勝利した。笹口町長はこの住民の意思を行政に生かし、原発予定地にある町有地を反対派に売却したのである。

その町有地の売却方法については、賛成派からルールに反すると裁判を起こされたが、最高裁で町長の勝訴となった。
    
その結果、巻町に原発建設は不可能となり、東北電力は撤退を発表し、巻町の原子力発電所建設計画は終止符を打ったのである。
笹口町長は、時の権力に抗し、町民に約束した反原発行政を貫いた2期8年間の功績は甚だ大きいものがある。
          
正に「天晴れ!」と賛辞を贈りたくなるのは爺一人ではあるまい。長い間大変な御苦労様をされた氏の功績は、後世にその名を刻まれることと信じている。

 -2011.6.12追記- 
*後年2011.3.11東日本大震災が発生、福島第一原発の放射線漏れが発生し、その対応問題で菅首相は退任し、政局は混乱しているが、世界の目は、ここ日本国福島第一原発に注がれている。

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「東京ブラックアウト」読後感   2015.2.16   1026

「原発ホワイトアウト」に次いで、第2弾「東京ブラックアウト」・・・若杉冽著、(講談社)を興味深く読んだ読後感を記してみる。

登場する氏名職名は擬似的仮名で表示されているが、直ぐ実名が想像ができて読みやすかった。著者はどうしてこんなに詳しく知っているのか、小説にしては現実実を帯びていて。公務員の職務上知り得た知識の漏洩にならないのか、等いろいろと考えながら読み進んでいった。

読み終わって、我が国にはまだまだ言論の自由は存在していると感じたし、全体を通してと、政官財の結びつきがハッキリしていて、私が想像していたとおりで昔と変わっていないと感じた。

本文大筋は、原発再稼働した世界一の大出力柏崎原子力発電所でトラブルが発生した想定である。
原因は、東京へ送電している送電線を、山中で何者かがダイナマイトで爆破し、その結果柏崎原発がメルトダウンをおこし、一瞬にして放射能が新潟県全域はもとより、関東東京地方へ迫り、新潟県は勿論のこと、大都会東京は避難民で大混乱を起こした。

放射線で住めなくなった東京の都市機能は、西の京都へ移転し天皇も京都へ、また、この大惨事でオリンピック、パラリンピックの開催は不可能になり、お隣中国上海市開催となった。

ザッとこのような粗筋であるが、小説では再稼働に難色を示している現泉田新潟県知事は、当局の作った罠で小菅刑務所に拘留されていて、後任知事は中央の官僚出身者に変わっていた。

福島原発惨事でご存じのように、このような事態が起きないとは限らないのが原発であり、又、原発は廃棄物のやり場がない現実と、放射能被爆を考えれば、休止中の原発再稼働は簡単に許してはならないと感じた。

気になったことは、放射能で逃げ惑う庶民の姿の描き方が足りない。
・東京都市圏に放射能が降りかかっているのに、避難する市民の描写が甘い。富裕層で情報を知った人たちは、家族を海外へ旅立たせているが、多くの庶民はそれはできない。あの狭い地域東京だけでも1千万も人が住んでいるのに、いざ避難の際の悲劇を、もっと深く掘り下げてほしかった。

本文中より抜粋より、
・「小吹(伊吹)衆議院議長は元大蔵官僚で法令の条文に精通している。大学受験や国家公務員試験の洗礼をうけたことのない四世加部(安倍総理)がとても敵(かな)うはずがない」と本文に記している。

興味を持ち調べてみると、現安倍総理(岸元総理の外孫)は成蹊大学法学部政治学科卒業だが、正式ルートの入学ではないのかな。以前大学入学問題で「**枠」が問題になったとき、森前総理は自から早稲田大学卒だが「私は政治枠」で入学したと公表していたことを思い出す。

安部総理の国会答弁等では
「私が総理になって2年前と比較してこうなったとか」自慢に満ちた言葉の連発が多く、同じことをくどくどと答えていて、質問者から嫌がられているが、総理の口から哲学的な言葉など聞いたことはない。失礼だが頭脳明晰決とは思っていなかった。
安倍総理もこの手で入学を許可されたのかもしれない。まして国家公務員一種試験合格などできないと思うし、その必要もない富裕層の人である。

国会は二世三世議員がゴロゴロいて、先生様と言われる連中の集まりだが、頭脳よりも血統が重要視されるのがこの世界だ。これらの条件が整っていれば、総理の地位にも上り詰められるのが現実なのだ。

蛇足だが、ここまで書いてきて、安部氏の御祖父岸信介氏が総理大臣(1957~1960)に就任した頃の記憶がよみがえったので、記憶のまま記してみる。

岸信介氏は東京帝国大学卒だが、成績優秀で本来ならば大学に残る人材であったが、本人は大蔵省でなく当時の商工官僚への道を選び、農商工省へ入省したと伝えられていたことを思い出した。

なお、岸信介氏は戦中東條内閣に商工大臣として入閣し、敗戦により戦争責任を問われ東京軍事裁判で裁判を免れたA級戦犯被指定者(被疑者として3年半拘留された)でもある。

また、岸氏の兄は旧海軍兵学校へ進んだが、海軍兵学校始まって以来の優秀な成績を残すほどの人材であったと・・・、当時のマスコミで伝えられていたことを付け加えておく。・・・(当時の記憶で精度の確認の方法がない)

又、信介氏の弟佐藤栄作氏も、東京大学法学部卒の運輸官僚で政界進出し、総理まで上り詰め、歴代総理在任最長記録をしているほどの秀才一族であるが、お爺さんや父が優秀でも孫が優秀だとは限らないのは世の常だ。東大を出なく高級官僚にならなくとも、一国の総理になればそれが最高というものか。

此処で又本書に戻るが、村職員、県職員氏との対話について記されている。
九州のある地方の原発関連で、陳情に来た県と村役場の職員との会話を記述している。官僚の受け答えが県や役場の吏員など見下げた受け答えで書いる。

要約すると、
「官僚と言われている公務員は、国家公務員一種合格で官吏であり、地方公務員は吏員だ、偏差値で10も違う」
と自らを誇示していて、村役場の職員などは小馬鹿にしたやりとりで書かれている。小説の上とは言え、学歴万能のこの世界、国家公務員一種合格の官僚からみるとそうなるらしい。

このような文章で書き綴られている本書は、官僚の仕事は正に国家の命運を左右するものであり、霞ヶ関と永田町、財界との結びつきが詳しく記述されており、私の想像どおりだが、本書は公務員試験一種合格の能力と、その官僚としての威力を遺憾なく発揮して、自信あふれる健筆で最後まで貫かれているのが特徴である。

以前、国会は政治優先だ、官僚は応えなくて良いと騒がれたことがあったためか、最近は官僚の国会答弁は少なくなった。その分勉強不足の政治家のために、答弁書を書く官僚達は、素人大臣にも判りやすく書くために、仕事が増えたと聞いたことがある。

しかし、TVで国会中継をみていると、政治家は官僚の苦労も知らずか、彼らが夜を徹して書いた原稿を、棒読みをしている姿を見ていると、政治家は勉強をしなくとも勤まるのかと悲しくなることがある。

官僚と政治家の繋がりは、政治家が如何に強がりを言っても、官僚の力を借りなければ何も出来ないのが現実で、官僚との接触は自分の知識の向上や現状維持のためにも必要で。その仕組みは依然として変わらないのではないか。

面白い例の紹介
元元総理 田中角栄氏は大蔵大臣の時、官僚の使い方が上手く今でも語り次がれているという。
又、角栄氏の娘田中真紀子氏は実に下手だったようだ。外務大臣に就任後何ヶ月も経たないうちに、部下の外務官僚を敵に回して、小泉総理の裁定?で次官と相打ちになって、大臣をクビになる醜態を演じたが、それほど官僚の力は強いのである。

政治家と官僚
政治家は官僚との接触により自分の知識の向上にもなるし、一方官僚も先のある政治家には惜しみなく知恵を漏らして自らの将来を考えているのではないか。

本書著者は国家公務員一種合格の現役官僚である。文中最後まで一種合格の官僚のプライドが溢れているのが特徴である。

最後に、福島原発事故の原因が究明されない今の実態では、原発の再稼働には賛同できない。原発事故までは、政府、官界は財界は
「原発は公害のない一番安い電力」
とPRしてきたし、我々国民を洗脳されていたが、柏崎に故郷を持つ私は、柏崎原発が大惨事が起きないいように祈っているが、祈りなど通用する話ではないので心配だ。

東北大震災による福島原発メルトダウンの結果をみるに
「原発はコストが一番高い電力で、廃棄物のやり場のない最も危険なものである」
ことを知り、この現実を曾孫に、またその曾孫の代まで負の遺産として残すようなことは、やってはならないのでないか。

まだある、負の遺産と言えば、原子力廃棄物だけではない、我が国国家財政の借金も1千兆にも膨らんだが、この膨大な負の遺産を後輩に残こしていいのか、考えねばならぬ、私は、許してはならない事だと思っているし、10%の消費税によって賄えるかそれも心配だ。

参考
「東京ブラックアウト」  講談社    1.600円(税別)
 著者紹介によると
 東京大学法学部卒、
 国家公務員1種試験合格、
 現在霞ヶ関の省庁に勤務、

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節 分  2015.2.3   1025

一般的に節分(せつぶん/せちぶん)と称する2月3日は立春の前の日を指す。当地の節分の今日は曇り空で、気温は低く時々降ってくる白い雪がなお一層寒さを増幅している。

先日ホームページに写真を送っ頂いた知多半島にお住まいの某氏から、早咲き桜の花に可愛いメジロが蜜を求めている写真を貼り付けてもらった。これを見た私は日本列島は広いナー・・・もう桜花が咲くのか、今から春とは羨ましい気持ちが湧いてきた。

しかし、現実はこのところ北海道オホーツク海に強烈な低気圧が渦を巻いていて、一方シベリア大陸から寒気が襲いかかっていて、北海道羅臼地方は大雪による大荒れだとTVは伝えている。
ご多分に漏れず当地も寒く、とても春が近くにきたなどと想像はできない2月3日節分の日である。
当地の春はまだまだ先のことだ。

越後新潟の民謡十日町音頭に、  

「♪ 梅も桜もみな開く」

と歌詞にあるが、梅が咲き次に桜が咲く自然の摂理に反した歌詞である。
我が家でも新築時に庭木に梅を植えたが、その後花が咲き毎年梅の開花時期を身近で見ていると、梅の方が早く咲く。これも私の住む地が海岸に近く、雪が少ないためと思ってもみるが、如何に雪国越後と言えども、梅の次に桜が咲く自然のサイクルは変わらない。十日町音頭の歌詞は雪の多さを強調したものと思っている。

人間世界の科学が発達しても、春夏秋冬の季節の循環を換えることは不可能で、毎年間違いなくやってくる春夏秋冬の周期は崩れない。となればその季節と上手くお付き合いをしていくのが得策である。

私もこの地に産まれて以来何十年、一つの宿命と捉えて生きてきた。悪いことばかりではない。良いこともあるのだ。雪がとけた寒い春に、厚い土を割って芽を出し花が咲く、この感覚は他では味わいないものである。これらも趣の一つと捉えて生きてきたし、これからも自然とうまく付き合っていこうと思っている。

以上が節分に当たり、春を身近に感ずるこの日に思いつくままを書いて見た。

-最後に節分の解説-
節分とは立春だけでなく、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。(ネット・ウィキペティァより)

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電力考     2015.1.元日    1024

  2014年は大変お世話様になりました。
  
  本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

気象庁長期予報では暖冬と告げていたが、昨年12月から寒波襲来だ。今日も寒波で積雪予報だったが奇しくも外れて、今日(12月31日)は小雨のお天気だ。私の住んでいる新潟の冬期間は、「雪が降らなければ良し」としなければならない地域である。

さて、このお天気が私たちに与える影響は甚だ大きいものがある。今日は雨だ雪だと、その地域に住む人達は大変苦労し、身の丈を超える豪雪にも耐えて生活をしている人達もいるが、いろいろの事情で故郷を後にできず、先祖伝来の土地を守っているいる人達である。

大都会東京の大部分の住人は、豪雪など何の関わり合いもないと思うだろうが、実はこの雪溶け水により川の水量は増え、その水が潅漑用水として田園を潤し作物が収穫できる。又潅漑だけではなく、電力エネルギーとなって国を潤しているのである。

今話題の自然エネルギーと言えば、昔からの水力発電がある。この水力発電の歴史をインターネット辞典ウィキペティアを紐解いてみる。

・世界の水力発電の歴史
1832年にフランスのヒポライト・ピクシーにより現在の仕組みの発電機が発明された。1878年には米国のエジソンが白熱電球を発明し電力需要が生まれ、発電機の動力として水力を利用した水力発電が1800年代後半に始まった。

世界で最初の水力発電は、1878年にイギリスのウィリアム・アームストロングが自身の屋敷の照明用(1個のアーク灯(arc lamp))に設置したものである。アームストロングは水力発電機の発明者と見なされている。

・我が国の水力発電の歴史
水力発電では1888年(明治21年)7月に宮城紡績が設置した三居沢発電所(5kW)で自家用発電を開始し、その後紡績会社や鉱山会社により発電所が設置が続いた。

1891年(明治24年)に琵琶湖疏水の落差を利用した米国のアスペン (コロラド州)の水力発電所を参考にした[7]蹴上水力発電所(水路式、直流、160kW)が、運用を開始した。これが日本で最初の一般営業用(電気事業)の水力発電所である。

初期の電力の需要は電灯により始まったが、日本では1913年(大正2年)に電力の動力需要が照明用の需要を超え、1914年(大正3年)には工業用の動力で電力が蒸気力を越えた。
1915年(大正4年)には猪苗代水力発電所から日本初の長距離送電(228Km)が始まる。
とあり、欧米の技術が輸入され水力発電が始まったのは36年後である

・東京で消費される電力は殆ど東京以外から供給されている
日本アルプスが水源と言われる、信州千曲川から越後に入って信濃川となる信濃川水系発電所の例。
十日町市に流れる信濃川に堰(せき)を造って発電し、その放水をトンネル経由して小千谷市まで流し、JR小千谷発電所で発電している。
JR千手発電所は「昭和14(1939)年11月:運用開始(発電機3台)」ネツトより

この二つの発電所で発電された電力は、全て、東京のJR山手線の電車をはじめ、東京地方のJRを走らせているのを御存じだろうか。

日本一の大河信濃川も夏の渇水期は、この発電所の堰のために、十日町市から下流小千谷市までは殆ど水量がなく、これが日本一の大河信濃川かと驚くほど水量がない川に変貌している。

最近地元とJRの話し合いが纏まり、以前より流量は多くなったが、これが日本一の大河信濃川かと落胆させられるほど水量の少ない川になり、そこで生息する生物類の生存は脅かされている現実がある。

自然エネルギーの範たる水力発電も、積もりに積もった豪雪が徐々に溶けて水となって川を潤すが、水が欠かせない水力発電では、雪は重要なエネルギー源であり、それにより潤っている所もあることは余り知られていないが、知っていて損はない

また、柏崎原子力発電所7基のエネルギーは全て東京関東地方で消費されるもので、東京で消費する電力の大半は東京以外で発電されているのが現実であり、危険で怖い物は全て東京以外で発電されていることを知ってもらいたい。

・原子力発電所は安全エネルギー源だったのか
原子力発電所設置の初頭は、政府は国民に「一番クリーンでコストの安い電力、それが原子力発電所だ」と宣伝していたが、東北大震災で福島原子力発電所が大事故を起こすとは想像していなかった。原子力発電所は安全神話が優先し、非常時の備えが怠っていたように思う。

例えば、ロボット王国日本の、原子力発電所に無人ロボットが一台もなかった現実、、、米国から借りている報道をみて私は感じた。

近隣住民は故郷を離れて日本中の各地に疎開させられたが、大事故は未だ終息の目安も立たないほどで、政府の宣伝は虚だったことがはっきりしたし、逆に一番危険な発電設備であることが証明された。

汚染物質の処理問題の困難さなどもあり、放射能を漏らさずに復旧させることが果たしてできるのだろうかと素人の私は危惧している。

・危険な原子力発電所は必要なのか
これほど危険極(きわ)まりない原子力発電所を輸出し、又、休止中の原子力発電所の再稼働が各地で行われようとしているのが現実である。

現在日本中の原子力発電所が休止中であるにも関わらず、発表された各電力会社の経営状況によると、各社共経常利益(儲け)は黒字と報道されている。

危険な原子力発電所がなくとも、懸念された夏季ピークの電力需要を乗り越えたが、果たして危険な原子力発電所は必要だろうか、、、と考えさせられる。

・自然エネルギー開発が遅れている理由
我が国は諸外国に比べて自然エネルギー開発が遅れていると言われているが、その理由は、原子力発電所の設置が進んでいた頃、太陽光エネルギーで得られる電力量は、原子力発電所1基分の出力を得るには、太陽パネルの所用面積は、東京JR山の手線の内側くらいの面積が必要だといわれていた。

国土の狭い我が国にふさわしくないと、時の政府は原子力発電所建設へ舵を切ったと伝えられている。

自然エネルギー開発を怠っているその間、諸外国の研究は進み、我が国は先進国中最低の水準だとマスコミは伝えている。

・自然エネルギー発電の買い取り制度の破綻
各電力会社が買い入れている、自然エネルギー太陽光などから得た電力の買い取り制度が、破綻にひんしているとマスコミは伝えているがなぜだ。

その理由をインターネットより索引してみると、
「太陽光の発電効率が高まる初夏の晴れ間など、瞬間的に消費量を上回る電力が、送電網に流れ込み、需給バランスの崩壊が周波数の乱れを招く。

周波数が乱高下すれば、半導体など精密機械の生産現場では不良品が続出することになる。更に発電所の発電機に負荷を与え、連続的な大規模停電さえ引き起こす事態となる」とあった。

私は専門家でないので詳しくは分からないが、要は週波数が乱れることへの懸念のようだが、技術立国日本の力でこれをカバーできないものだろうか。

・私は考える
前提として周波数の乱高下を防ぐ技術の開発を優先し、のちに、自然エネルギー発電の買い取りを行い、自然光の多い夏季の渇水期は、水力発電は水不足の時期でもあり一部停止させるとか。

と考えるが、太陽光発電は日本各地で生産されていて、今買い取りを拒否されればその企業は破産してしてしまうから、そう簡単なものでもあるまい。

なお、採算性の問題から足踏みするのであれば、買い取り価額の調整により解決出きるものと考えるが、如何なものか、、、、、

今は、電気も電話も空気のような存在になり、あって当たり前、無くなって初めて有り難さを知る時代になった。

電力会社が言う理屈
「太陽光の発電効率が高まる初夏の晴れ間など瞬間的に消費量を上回る電力が、送電網に流れ込み、需給バランスの崩壊が周波数の乱れを招く」
恐れがあるとされているが、自然エネルギー買い取り制度発足の時点で分からなかったのか不思議に考える爺である。

等と、暇は売るほどある爺の夢の「新年戯言」書いて見た。

-正月早々堅苦しい長い文章を最後まで読んで頂いて感謝です-

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日中首脳会談習近平主席の「笑顔なき」謎
   2014.12.1 1023
 
一般的な首脳会談では、両者が笑みを浮かべて握手をしたり抱擁をするのが慣例だ。しかし、今回の安部総理と会談時の習近平主席の表情は異質であった。、安部総理と儀礼的な握手後、不愉快のような「笑顔なき」表情がTVカメラに映し出された。

その表情は、苦虫をかみつぶしたような顔で、とても友好的とは受け取れない表情であり、TV画面を見ている日本人の多くは、友好的な関係が生み出されたとは思わなかっただろう。

では「笑顔なき」謎はなぜなのか考えて見る。
1.国内向けの顔なのか
江沢民主席(1993~2003)の時代に、徹底的な反日教育がなされ、多くの中国国民はこの反日教育で育った年代であり、そう簡単には親日的にはなれない国民層である。

国内的に考えれば国民に対して、過去に虐められた日本国の総理に、簡単に笑顔で握手の姿は見せられない環境にあるのでないか。

.習近平主席自身が、江沢民主席時代の徹底した反日教育のように、徹底的に反日思想の持ち主なのか。その辺は定かでないが、今までの対日施策を見る限り、我が国と友好的とは思われない指導者であると私自身は思っている。

その後「笑顔なき」謎の首脳会談開催について、日刊紙に載った記事等を通じて分かったきた。

外交筋によると、合意書作成にあたり、いろいろと問題がでたが、要約するとつぎのようである。

・中国側主張「首相の靖国不参拝の確約」
日本側主張とずれが有り、この問題が最後まで続き、合意文書作成発表後も首脳会談の調整がもつれ最後まで攻防が続いた。

中国側が最も恐れたのは、以前尖閣国有化をめぐって、前野田総理と前胡錦濤主席との非公式会談で、胡錦濤氏が尖閣国有化に強く反対したが、その数日後に野田総理が国有化した前例があり、今回も「会談後に安部総理が靖国神社に参拝する事態」になれば、最終的に習近平氏のメンツに傷がつくことだった。

このように合意文作成にあたり、中国側は「首相の靖国不参拝」を強く働きかけてきたが、日本側は譲らなかったという。首相周辺では靖国参拝の「フリーハンドは確保された」としている。

会談も迫り折衷案として
1.事前には会談の開催を発表しない。
2.首脳会談で握手をしても、笑顔を見せない。・・・・等の条件で双方は折り合いがついた。

今回の会談で関係改善が大きく前進することはない。当面日中関係は厳しい状態が続く」と考えており、会談の成果はあまり期待がもてそうもないようだ。

以上のような経過で極められた日中首脳会談「習近平氏の『笑顔なき』謎」は、両国外交筋が決めたシナリオに従った演技のようである。

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